煩悩辞典

 煩悩とはサンスクリット語ではクレーシャと発音し、凡夫(普通の人)が苦悩する原因であるという意味である。

 煩わせ悩ませるもの、煩悩。こういうものが自己にしっかり備わっており、自力では克服できません、どうぞお助けください、という名告りを浄土真宗では信心(慙愧)といって大切にしていきた。

 如来蔵思想では、煩悩とは本来清浄な人間の心(自性清浄)に偶発的に付着したものであると説く(客塵煩悩)。

 この煩悩を仏法の智慧によって断滅し、衆生が本来もっている仏性を明らかにすること。すなわち煩悩の束縛から脱出して仏の智慧を得て安楽の境地に至ることが、大乗仏教の悟りである。

 菩薩の四弘誓願に「煩悩無量誓願断」が立てられているのは、煩悩を断ずることが大乗仏教の基本思想であることを示している。

 大乗仏教の教理は数百年かけてやがて発展し浄土思想が大成されていく。

 人間は所詮、煩悩から逃れられぬというところに観念し、煩悩をあるがままの姿として捉え、そこに悟りを見出だそうとする煩悩即菩提の考えが、次第に大乗仏教の中で大きな思想的位置を占めるようになった。

 大切なことは、この一点。煩悩具足の凡夫であることに無自覚であるということだ。

 口では「私は煩悩があります」と言ったりするが本心からそうは思っていない。煩悩はしっかり備わりはたらいている。表面化していなかったり、気づきがないだけなのだ。

 以下に煩悩について、一覧化して少しずつ解説していきたい。できればあまり知られていない煩悩から、分かりやすく面白く、進めようと考えている。

現在の煩悩数……15個 2020/05/29現在

七慢

他と自己を比較して、無根拠におごり高ぶること

自慢

自分より低いレベルにあると思われる者に、自分は優れていると示そうとする煩悩。

 スネ夫がノビ太に最新のオモチャを自慢する。高級外車を自慢する。持っていない人に持っていることを自慢する。こういった根性は、ひがまれてしまうので気をつけないといけない。ひがまれる、うらやましいと思われることを心地良いというなら、自己の煩悩に素直であるということだ。見栄を張るのは、自慢の煩悩の仕業である。

 この煩悩に無自覚のままであったり、あるいは歯止めがきかなくなると、待っているのは破滅だ。

 見栄を張り続けないといけない生き方は、相当に疲れる。

 

 さて、先輩あるいは目上の者が、後輩などに食事などを御馳走することを「おごる」という。

 漢字にすると、「奢る」になり、過度なぜいたくをする、他人に御馳走する、という意味である。 奢侈(しゃし)。  もう一方、「驕る」は、これも「おごる」と読み、自分に優れた能力や地位などがあるのをいいことにして他人を見下し、自分勝手な行動に出ることを意味する。驕慢(きょうまん)。

 「奢る」だけならば、まだ良いが、そこに良い格好をしたい、自己を誇示したい、などという「驕る」自慢欲求がふくまれてやしまいか。

 

好ましい奢り方↓

 「いやいや、ここの会計は僭越ながら出させてもらうよ。いやいや、普段お世話になっているお礼だよ。こんなに頼りないのに、いつも先輩として顔を立ててくれて、力を貸してくれてありがとう、これからもよろしく頼むよ、厚かましいお願いだけれども、感謝の気持ちとして、ここは一つ奢らせてください」

 

よろしくない驕り方↓

 「お、グラス空いたな、お酒を注いてやるよ。なに、いらない? オレの酒が飲めないっていうのか、生意気なヤツだな、目上から振る舞いを受けたら、有難く受け取れってんだ。ようし、オレが社会人のなんたるかを教えてやる」

この煩悩と似たようなバイアス……ダニング=クルーガー効果


過慢

同じレベルにあると思われる集団の中で、自分は優れている方だと思い込む作用をする煩悩。

 この煩悩に無明(酔って気づけない)であるということは、その自己のよくない成績や成果などの客観的事実は根拠がないことだ、と勘違いして無視し、盲冥(自己の問題点が見えなくなって気づけない状態)になっているということである。

 過大な自尊心は自信にもなるし行動力にも影響するので、ある程度過慢であることは大切であるが、強く偏りすぎると、人間関係に摩擦を作る。あるいは影で悪口をささやかれるだろう。自分が評価されないのは、周囲のせいだ、という態度になりやすく、能力に起因したミスをしても内外に言い訳ばかりして改善努力を怠る。効率の良い反省ができなくなってしまうのだ。 

 自己を見つめ、他者の声や評価に謙虚に耳を傾けることは大切である。聞法習慣(仏の教え(説教)を聞く習慣)を真宗門徒が大切にしてきた理由が、よく分かる煩悩である。

 

過慢な態度

「テスト結果は平均点だったけれど、ちょっと予習不足なだけで、僕はその気になってちょっと勉強すれば、あっというまにみんな追い抜いちゃうよ。余裕、余裕」

「こんなテストじゃあ私の本当の力を測れない。テストが悪い。私はもっとすごい」

この煩悩と似たようなバイアス……自信過剰効果、優越の錯覚、ダニング=クルーガー効果


慢過慢

自分より高いレベルにある者に、自分は対等以上であると誇示する煩悩。

 身近な現象で簡単に説明すると「知ったかぶり」である。

 とある話題の中で、相手の方が良く事情に精通している場合、「自分はもっと知っている」と誇示してしまう煩悩だ。その知ったかぶりトークはウソや推測の内容になってしまうので、相手を不快な気持ちにさせてしまう可能性はとても高い。知ったかぶりはほどほどにするべきだ。

 会話の潤滑剤として、「ああ、それね、はいはい、知ってるよ、それで、それで?」とテンポや流れを良くし、相手に気持ちよく語ってもらうつもりで合わせる程度の「知ったかぶり」なら可愛い。しかし、相手が自分よりよく知っているコトが気に入らない、自分の方が優れていると誇示したい、話の主軸が自分ではないことが気に入らない、などなど、慢過慢に起因した態度が出てしまうと、相手は不快に思って当然だ。

 「ちゃうちゃう、そういうのオレも体験したことあるで。オレにもよくあるけれど、こうするべきやで」

 このようにかぶせて自分の方がよく知っている、と話に割り込まれたらどうだろう。上手な知ったかぶりならまだしも、話の腰を折られたような不快感は残るし、今後、その者との関係に距離が生まれるだろう。

 だから、慢過慢の知ったかぶりの相手をしなければならない人の胸中は、(なんだ、また知ったかぶりか。指摘しても関係悪くなるだけだし、話を合わしておいてやるか。まったく、どこまで本当かウソのか)とあきれており、引きつった笑顔をしていることだろう。

 

 さて、地獄と極楽のかわりめになるのが、そういった自己顕示欲が自分の中で働いていることを、自覚しているのかどうかという一点だ。

 無自覚ならば、その者は自己を誇張し続ける迷いの連鎖に身を起き続けることになる。「自分はスゴイ」と自分と周りにウソをつき続けることなる。慢心で尊大な気分は学習意欲を低下させるので、成長も芳しくないだろう。身の程を知ることは大切だ。

 では、自分が煩悩に酔って無自覚でいることをお知らせしてくれるモノは何かというと、他からの指摘である。仏法ではそれを他力といい、照らし出された自己の真実に向き合う智慧が働いているのである。私はそのはたらきそのものが他力であると感じている。

この煩悩と似たようなバイアス……自信過剰効果、優越の錯覚、ダニング=クルーガー効果


我慢

自分が中心でないと不満に思う煩悩。自己中心的。

 ジコチューのことだ。

 幼子が、引っ繰り返って「あれ買って買って」と駄々をこねる姿は、最近見かけなくなったが、そういう煩悩である。

 思い通りにならないと不平不満をまき散らし周囲の人を困らせる煩悩。

 大昔の日本では駄々っ子に「我慢を控えなさい」と言ったそうだが、近代ではすっかり「ガマンしなさい」に省略・変化してきた様子。お坊さん的には、「我慢」といえば煩悩のことで、「ガマン」といえば日頃使う言葉として使い分けている。

 

 とある結婚式にてこんなことがあった。

 新郎親族の70代男性が、席次が不満だったらしく、大きい声で、「なんでオレがここやねん、どないなってんねん!」とスタッフに不満をぶつけて周囲を困らせていた。せっかくのお祝いの席が、傲岸不遜なオジサンのために沈鬱な空気になった。

 新郎の父と母が謝ったので、怒鳴った本人は満悦だ。甥の祝いの席で人を謝らせて喜ぶ姿はとても醜いものだった。席次は間違っていたらしい。不当な扱いを受けたとはいえ、祝いの席で怒鳴る神経もどうかしていると思う。そのオジサンも自己中心的で我慢を控えることのできない、ちょっとガマンすることができない思い上がった思考が膨張しやすい生活習慣なのだろう。

 席次は血縁順位的に作らないといけないので、親戚多いと間違えることもあろう。

 昨今は新婚夫婦が「自分たちの結婚式だ」と言い張って式の段取りをほとんど決めて、両親はお金を出すだけ、というものが多い。古式に疎いが故に間違いも起ころう。確かに主役はお二人だが、自己中心的になりすぎて両親や周囲の意見を聞いたり、相談したり、確認してもらったりする姿勢がないのも悲しい問題だ。

この煩悩と似たようなバイアス……自己中心性バイアス、Always being right(常に私は正しい)


増上慢

さとりを得ていないのに、得ているふりをして驕り高ぶる煩悩。

 仏教学的に説明すると、釈尊が悟った「正覚」を、得ていないのに「さとりをひらいた」とウソを言う煩悩である。

 分かりやすく言うと「分かっていないのに分かった」と言ってしまう優越錯覚作用だろうか。

 

 昔、拙僧の身にこんなことがあった。

 初めて説法の依頼が来た若かりし日、有頂天になって同期の仲間に自慢してしまったことがある。言い方も慇懃無礼で「いやはや困った、こんな若僧に身に余るご依頼。しっかりやれるか不安だ」みたいに言ったものだ。対してたいていの友人たちは「すごいじゃないか」とか励ましてくれるが、中には「おまえ、大丈夫か? 今よりもっと法話修練せねば恥かくぞ」と本当の意味で心配してくれる者がいた。拙僧は彼に向かって「大丈夫じゃい、分かってるわい、ちゃんとできるわい」と口からでそうになるのを、心中になんとかおさめた。

 説法のご依頼が一件きただけで、なにか一流の講師の仲間入りした気分になって、修練を怠ってはいけないぞ、慢心してはいけないぞ、と、私を本当の意味で案じてくれた彼こそ、真の友であったとしばらく経って反省できた。なかなか、慢心が邪魔して素直になれなかった。

 尊い大切な導きが、慢が邪魔して受け取れぬ、なんとも迷惑な名利心だ。 

この煩悩と似たようなバイアス……自信過剰効果、優越の錯覚、ダニング=クルーガー効果


卑下慢

自分より優秀な者を指して、自分はそれより少し下だというふりをして驕り高ぶる煩悩。

 七慢の中で、これが一番手の込んだ煩悩だと言える。意識的にそうする者は多いはずだ。

 例えていうなら、自分は本来レベル10の能力なのに、レベル100の他者を指して「自分はあの者より少し劣っている程度だ」と言って、実際より自己を高く評価、アピールする煩悩だ。

 

 拙僧の知り合いに優しい頑丈な青年がいる。あだ名はゴリラ、あるいはゴリ。拙僧も古い仲なので憚らずゴリと呼ぶ。背丈は180㎝と大きめで、広い肩幅で筋肉隆々、快活な男である。ただ残念ながら、あだ名の通り、その顔は幼い頃から現時点までずっとゴリラそっくり。まったく男前、イケメンではない。

 優しく子ども好きで拙僧の寺の子ども会も世話人もしてくれる。「うっほっほ♪」と子どもたちをゴリラのマネで楽しませて大人気だ。「よくできたゴリラのお面だな、暑くるしいな、もうとってもいいぞ」「うるせえ、地顔だ地顔!」で始まる。

 

 ある時、普通にスーツを着て、普通に電車に乗ったところ、向かいの席の見ず知らずの女子高生が自分の顔を見て吹き出して、写真まで撮られたそうだ。

 またある時、コンビニで雑誌を立ち読みしていると、全く見ず知らずの小学生男児に、「うわ、ゴリラが本読んでる」と指さされ笑われたそうだ。

 後にこの話をしてくれた時、彼は「自分でゴリラのマネをするのは平気だが、他人から言われるのはとても腹が立つ」そうだ。

 自己を卑下して表現している時は、実は本当はそうではないと思っている根性があるということだそうだ。

 

 拙僧も身に覚えがある。

 法話の場で教壇に立つと、大抵前の中心の方はだいたい席が空いている。端っこや後ろは大人気。端に座る方に「どうぞ前の方へいらしてください」と声かけると「いえいえ、私はここがちょうどいいです」と遠慮なさる。そこでもし拙僧が「そうですね、あなたには端っこがお似合いですね」と言ったら大変なことになるだろうな、と前に空席が多いときはいつも思っている。 


邪慢

間違っていても、正しいと言い張り、自分には徳がないのにあると思う煩悩。

 さて、七慢の中で、これが一番厄介な煩悩だと言える。親鸞聖人も正信偈に「邪見驕慢悪衆生」と、「衆生(人間)は、よこしまなモノの見方(邪見)で、自分は正しいと驕り高ぶって(驕慢)、まことに反省しない慙愧しない罪悪をもっている」と自分を含めてうたっておられる。

 自分の価値感、モノの見方は正しいと、思い込んでやしまいか。自分の立場と都合に執着して、それを正しい言い張り、それによって他者を傷つけてはいまいか。正しいものなど何もないのである。

 

 間違っていても自分は正しい、悪いのはアイツだ、という姿は政治家によく見かける。

 豊洲移転問題で世間が大騒ぎしている時、当時の最高責任者だった石原元都知事は追い詰められたあげくようやく記者会見を開き、「自分に責任はない、悪いのはこの問題を大きくして選挙に利用した小池さんだ」と呆れた開き直りをした。手を上げ質問して追求する記者がいると「おまえは誰だ、どこの記者か、ああ、うそばっかり書く低俗なところか」と言って相手にしなかった。政治という間違いがあってはならぬ立場と都合上、間違っていました、ごめんなさい、と素直に言えないのだろう。 


愚癡(無明)

真実が分かっていないことに無自覚であること。自身に煩悩が備わりしっかり働いていることを分かっていないことを分かっていない。

不正知

自分本位で善悪の基準が分からない煩悩。

 やっていいこと、わるいこと。そういった基準はどこにでもある。家庭、学校、会社、町会、どのコミュニティでもそれぞれの基準に沿って善悪ははかられる。善し悪しを基準化すること自体が愚癡(無明)なのだが、さらに深まると自分は正しいといって話が聞けなくなる。

 

 拙僧の娘が4歳の時、ネモフィラ(青い花)の鉢を買い与えると、甲斐甲斐しくお世話をしはじめた。

娘「うんしょ、うんしょ、お水をたくさん、あげましょう♪ 毎日たくさん、あげましょう♪」

拙「あまり、お水あげすぎると、根っこが腐っちゃうんだ。これくらいの量がちょうど良いでござる」

娘「へ~、じゃあ、ちょっとにしとこ」

 幼いゆえ、執着するものがまだ少ない。聞き分けのいいことだなぁ。

 

 話変わるが、ある時、堺のとある猿山で、ボス猿や他の猿が、客から無断に与えられるエサの食べ過ぎで糖尿になり、毛が抜けボロボロになった憐れな姿が報道された。

テレビ記者「ここに『エサあげないで』と注意書きがありますが、あなたはどうしてエサをあげるのですか?」

モザイクの人「うるせぇな、ホラ見ろ、猿が手ぇ出してエサ欲しがっているだろ。オレのこと覚えてるんだよ。あげないと可哀想だ」

 やがてボス猿は若い猿に頭領の座を追われ、病は進行し往生した。

 

 そのモザイクの人は親切なつもりなんだろうが、エサをあげたいという、自分の欲求しか見えていないようだった。 注意書きを見ても、記者に指摘されても、分からないようだった。

 

 なんという業だろう。

 同じ煩悩が、全ての人に備わり働いている。それに対して全ての人が無明(無自覚)である。

 他力に照らされ、気づかされることがあっても、その反省は継続しない仕組みになっており、分からん者はずっと分からないままだ。

 だから、このように煩悩を知らせてくる、自己を見つめ考え直す機会をあたえてくる宗教というものは、太古から存続し続けてきた。信仰は決して絶えない。人間が人間であるために必要なのだ。

 信仰があるとは、すなわち我が身を問いかけてくる尊いモノが生活の中にある人生だ。

 忘れる子孫のために、祖先は節目の度に必ずやってくる。仏事として説法と共に帰ってくる。その仏の智慧を受け取るのが供養だ。

 仏法聞いてもまた忘れるようになっているが心配ない。仏の方が見捨てず働き続け、呼びかけ続けている(他力)。それを仏が念(おも)うと書いて念仏で、南無阿弥陀仏(ナマスアミターユス)というのである。

 見捨てずに呼びかけ続け待ち続けている慈悲が、この身に働いている。


失念

物忘れし続ける煩悩。気づきを失った状態。仏の教えを忘れる煩悩。

 誰にでも忘れることはよくある。どれほどコレは大切なことだ!と思っても、しっかり忘れる仕組みになっている。「アチャー、また忘れたわw」など、可愛いものだが、忘れてはならないことも忘れてしまう。

 筆者の勝手な感覚で申すが、自分の性格や生活習慣に関する都合の悪いことはなお一層忘れやすい。大事なことだ、と気づきがあっても、忘れてしまう。

 

 拙僧は仏典マンガ制作委員会に携わっている。ネーム(荒い下書き)を作成してプロのマンガ家に仕立ててもらうのだ。新しい絵師を探すことになり、予算のこともあり、できれば低予算でプロでなくてもいい、という判断で、拙僧は絵のうまい知り合いを推薦した。

 

 その人物は、何をやってもうまくいかない人生だった。会社勤めしていたころ、遅刻は絶えず、いつも始業ギリギリ出勤で平気な顔。自発性は低く、ミスも多く、コミュニケーションは苦手。ただ、イラストや絵はうまい方だった。

 面倒を見たり相手にしてくれる者は最初はいたが、指導の甲斐がないのでだんだんその人物はもてあまされるようになり、単純な仕事を監督されながらやる状態になり、やがてその人物は空気になっていった。

 ときどき、社で使うイラストや似顔絵やキャラクターを任せられたが、それも上司が口うるさく期限を監督してくれないと書かない書けないといった具合だった。その時は良かったが、その上司が異動し、大きなミスを経て自主的に退職することになった。

 

 家でボーッとしているくらいなら、さすがも時間もあるだろうし、やってもらえないか、とその者に聞いてみた。拙僧の依頼にご両親は大変喜んでくれた。

 しかし、その人物は拙僧のネームを見て、「こんなんすぐできます」と言って引き受けたにもかかわらず、締め切りを過ぎても連絡のとれない時間が続き、委員会はその者にマンガを頼むことを見送ることにした。

 

 ようやく会う機会があり、どうしていたのか聞くと、「期限が迫り、やらなきゃやらなきゃと思い、焦ると、逃げたくなってゲームに逃避してしまう。自分のこれからのこともそうで、焦る気持ちはあるが、手に付かず、ゲームに逃げる」

 総合すると、辛かったそうだ。

「最初は楽な仕事だと思った。今も自分の技量的には、数日でできる簡単な内容だと思う。後でやろう、そのうちやろう、と先延ばしし続けた。期限が迫ってくると、マンガのことが、いつも焦りと共に頭の中にあって、追い詰められゲームに逃げる。親から『御院さんのマンガどうすんの! はやくしなさい!』とせかされて、『うるさい!』と一蹴してはゲームに逃げていた」

 ゲームに逃避していても、頭の中に焦燥感がずっとあるそうだ。その感覚はとても辛いものだったそうだ。

「今御院さんの顔を見て、逃げ出したかった。それで思い出した。かつての上司に『キミは監督しないと、誰かがスケジュールを立ててあげないと、お仕事効率よくできないようだから、そのへんがやるから、言われた順序でしてください』と言われ、そうだったのか、と膝をたたき、自分の性質を理解できて嬉しかった。自分で予定立てたり、ひとりで規則正しい生活習慣を保つことが苦手なんだ、と理解したのに、そのことを忘れていた」

 マンガという仕事を忘れたわけではなかった。自分の特性のことを失念していたようだ。

 こういった方は、的確なサポートがあれば、存分に能力を発揮していただける。拙僧のサポート意識も悪かった。小さな親切のつもりで、傷つけてしまった。

 

 自分の都合の悪いことは、見えにくく忘れやすい。

 

  見捨てずに呼びかけ続け待ち続けている仏さまの慈悲が、この身に働いている。そのことを、日々の忙しさの中で忘れてやいまいか。


貪欲

欲望を追い続け、満足することがなく、損得に病的に執着していることに無自覚であること。

睡眠欲

人間の勤勉意欲を濁らせ、怠け癖を増長させる、五欲の一つ。

 睡眠欲求は生きている以上備わっている基本的欲求の一つである。睡眠欲という煩悩について仏教的な解釈を申すと、正しい睡眠習慣でないと、上記の通り、生活習慣が乱れ、覚醒度が下がり、集中力も下がり、意欲も低下、怠惰、堕落する、ということなので、戒(シーラ:仏教徒が守るべき生活習慣)の対象である。

 言うまでもなく、質の良い睡眠・良い生活習慣は高いパフォーマンスの土台なのである。

 

 そういう意味で、拙僧は生活習慣が悪く、肥満である。よってイビキが大きい時があるらしく、横を向いて寝るなどイビキ対策そしている。お酒を飲んで寝た日は特にイビキが酷いらしい。新婚当初の我愛妻は「無呼吸症候群ではないか」とそんな私を心配して、優しく起こしてくれたものである。

 今や、結婚十年以上過ぎ、幼い娘を挟んで親子川の字で寝ている。拙僧のイビキがうるさいときは、子どものおもちゃであるマジックハンドで子ども越しにガツンと起こしてくれる。眠気が勝って腹立たしいのか、無言である。悪いのは私なので、「あゴメン」と言うようにしているが、無反応である。


見(けん)

正しく物事を認識できない性。自己の都合や概念が認識に入りこむ様子。常に色眼鏡をかけている状態。

悪見

物事の本質を見ようとせず、軽んじること。自分の都合のみで判断してしまうこと。

 とある長男男性の話である。

 認知症で施設に入居している母から何度も「空き家になったウチの、お内仏(仏壇)が心配だ、おとっちゃんにお仏飯せんと」と言われ、辟易していた。(あんなでかい、古い仏壇どうすんねん、面倒くさい)とは思いながらも、長男としての意識と、ほったらかしにしている後ろめたさもあって、当院に相談に来られた。

 古いお内仏の本尊は当院に奉納し、長男宅では小さな現代仏壇を購入され、御移徙法要(入仏法要)をした。

「ああ、ありがとな、ありがとうなぁ」

 息子氏は拝まれるように合掌されて、感謝された。よほど嬉しかったのか、涙していた。

 その涙を見てようやく、これまで母が大切にして心配していたお内仏を放っておいた罪の意識、何よりも母に相談せずに勝手に小さいお内仏に買い替えた罪の意識を痛感し、時を経て拙僧に告白してくれた。

 母はお内仏はまだそのままだと思っている。あの漆塗りの古い立派なお内仏は、大きいとはいえ、今の家でも置こうと思えばできないことはなかった。

「ああ、ありがとな、ありがとうなぁ」

 母が涙して喜ぶほど大切にしているものを、なぜ、自分は本質を見ようとせず軽んじていたのか。長男氏は小さなお内仏を見る度に良心の呵責が思い起こされ、仏とは何か、本尊とはなんなのか、素直に仏法を訪ねるようになっていた。

 いつだったか「この慙愧の念は、私を仏法へ誘う、仏さまからのご縁だったのですね」と拙僧に言われたことがある。

 この身が仏の智慧と慈悲に包まれていた事実を教えに確認することができて、小さくなったお内仏も大切に思うようになられた。

 

 認知の母は、心配事が減ったのか、すっかり大人しくなってしまい、息子さんの視点では「可愛くなった」そうだ。

 

 時々、御移徙したことを忘れて、また心配する。

「この顔見たら、お内仏のことを伝えなきゃ、って一生懸命忘れないようにしていたんですね。だから未だに頼んでくるんですよ」

 

「お内仏が心配だ、おとっちゃんにお仏飯せんと」

「お内仏は、ウチの家に引き取ったよ、家族みんなで毎日拝んでるよ。心配ないよ」

 と何度も報告する。

「ああ、ありがとな、ありがとうなぁ」

 と、何度もお礼を言われる。

 

 有難そうに合掌する小さな姿に、仏性を感じ、この母の息子で良かったと思っているそうだ。

 

 

  煩悩にまなこさへられて

   摂取の光明みざれども

   大悲ものうきことなくて

   つねにわが身をてらすなり

     親鸞聖人「高僧和讚」


瞋恚

怒り、恨み、嫌う心、憎悪。自分の思い通りにならないと怒るような心。また満たされぬ我欲が飛躍した時に生じる、害意、敵愾心。

不和合

人と人とが仲良くできない煩悩。

 ある時、高齢の母親の介護をしていた娘さんがこんな言葉をつぶやかれた。

 

「……本当は、優しく寄り添ってあげたかったのに」

 

 察するに、朝、家族に食事を食べさせたら家事をこなして、車で母親宅へ20分。こちらでも家事をして買い物をして洗濯をして。

 娘に迷惑をかけまい、自分でできることは自分でしないと。そう思った母親はトイレへ向かうが間に合わなかった。

 

「もー! お母さん無理しないで! 余計な仕事増やさないで!」

 

 母親に辛く当たるようになり、イライラした視線と辛辣な言葉を浴びせてしまった。

 

「……本当は、優しく寄り添ってあげたかったのに」

 

 時間、効率、お金、疲れ、将来への不安と模索、そういったものが心を支配していた。

 心を亡くすと書いて「忙」と「忘」。

 効率に追われてとてもじゃないけれども優しくできる余裕はなかったのだろう。

 本当は仲良くしたいのに。優しい言葉をかけてあげたいのに、自己の立場と都合が優先されて失念してしまう業が身に働いている。

 

 釈迦在世の時代、古代インドにマガタ国という国があった。

 商業を発展させ他国に負けない国を目指す阿闍世という王子は、従来通りの農耕中心で治世する父・浄飯王を、それまでの不仲と悪友のそそのかしも災いして、殺害し王位を簒奪した。

 王となった阿闍世は後に、深層から沸き上がってくる激しい後悔の念から重い病に伏し、名僧医はこう告げる。

「王は貪欲に夢中になり、本当の心を見失っておられた。父を殺すことがあなたが本当にしたいことではなかった」(闍王貪酔せり、本心の作すにあらず。「大般涅槃経」)

 自分の都合で父を殺すという大逆悪を犯し、本当は父を愛していたという埋もれていた清浄なる本性に気づき、度しがたい自己に目覚め、こころの底から救いを求めて釈迦の教えに帰依するようになった。

 

 阿闍世がこころの底から求めた救いを「本願」という。もとからあった願い、奥底に隠れた本当の願い、本当にこのいのちが求めているもの。この願いはつねに途切れることなくすべてのいのちに働いている。それが届けられている証を南無阿弥陀仏と申すのである。

 

 不和合という、この業と煩悩は修行したら克服できるのかといえば、ありえない話である。人間はつねに本当にしたいことを忘れて立場と都合に忙しい。時々仏法を聞いてハッっと反省することがあっても、忘れる仕組みになっていて継続できない。持続させようと努力しても、競争社会という娑婆(シャバ)がゆるしてくれない。そのような雁字搦めで苦悩の連鎖に溺れ続けるしかない、て自力ではどうしようもない凡夫を、阿弥陀如来は必ず救うと誓っているのである。