他と自己を比較して、無根拠におごり高ぶること。ここでは七慢を紹介する。

自慢

自分より低いレベルにあると思われる者に、自分は優れていると示そうとする煩悩。

 スネ夫がノビ太に最新のオモチャを自慢する。

 高級外車に乗っていることを自慢する。

 持っていない人に持っていることを自慢する。

 こういった根性は、ひがまれてしまうので気をつけないといけない。

 しかし、ひがまれたり、うらやましがられたり、嫉まれたり、といった他者の視線が心地良くてたまらん、という人は、自己の煩悩に素直でありすぎるということだ。見栄を張るのは、自慢の煩悩の仕業である。

 この煩悩に無自覚のままであったり、あるいは歯止めがきかなくなると、待っているのは破滅だ。そんな自慢好きの人は友人からも距離を置かれる。

 見栄を張り続けないといけない生き方は、相当に疲れる。

 

 さて、先輩あるいは目上の者が、後輩などに食事などを御馳走することを「おごる」という。

 漢字にすると、「奢る」になり、過度なぜいたくをする、他人に御馳走する、という意味である。 奢侈(しゃし)。  もう一方、「驕る」は、これも「おごる」と読み、自分に優れた能力や地位などがあるのをいいことにして他人を見下し、自分勝手な行動に出ることを意味する。驕慢(きょうまん)。

 

 「奢る」だけならば、まだ良いが、そこに良い格好をしたい、自己を誇示したい、などという「驕る」自慢欲求がふくまれてやいまいか。

 

好ましい奢り方↓

「いやいや、ここの会計は僭越ながら出させてもらうよ。いやいや、普段お世話になっているお礼だよ。こんなに頼りないのに、いつも先輩として顔を立ててくれて、力を貸してくれてありがとう、これからもよろしく頼むよ、厚かましいお願いだけれども、感謝の気持ちとして、ここは一つ奢らせてください」

 

よろしくない驕り方↓

「お、グラス空いたな、お酒を注いてやるよ。なに、いらない? オレの酒が飲めないっていうのか、生意気なヤツだな、目上から振る舞いを受けたら、有難く受け取れってんだ。ようし、オレが社会人のなんたるかを教えてやる」

この煩悩と似たようなバイアス……ダニング=クルーガー効果


過慢

同じレベルにあると思われる集団の中で、自分は優れている方だと思い込む作用をする煩悩。

 この煩悩に無明(酔って気づけない)であるということは、その自己のよくない成績や成果などの客観的事実は根拠がないことだ、と勘違いして無視し、盲冥(自己の問題点が見えなくなって気づけない状態)になっているということである。

 過大な自尊心は自信にもなるし行動力にも影響するので、ある程度過慢であることは大切であるが、強く偏りすぎると、人間関係に摩擦を作る。あるいは影で悪口をささやかれるだろう。自分が評価されないのは、周囲のせいだ、という態度になりやすく、能力に起因したミスをしても内外に言い訳ばかりして改善努力を怠る。効率の良い反省ができなくなってしまうのだ。 

 自己を見つめ、他者の声や評価に謙虚に耳を傾けることは大切である。聞法(仏の教えを聞く)する習慣を真宗門徒が大切にしてきた理由が、よく分かる煩悩である。

 

過慢な態度

「テスト結果は平均点だったけれど、ちょっと予習不足なだけで、僕はその気になってちょっと勉強すれば、あっというまにみんな追い抜いちゃうよ。余裕、余裕」

「こんなテストじゃあ私の本当の力を測れない。テストが悪い。私はもっとすごい」

この煩悩と似たようなバイアス……自信過剰効果、優越の錯覚、ダニング=クルーガー効果


慢過慢

自分より高いレベルにある者に、自分は対等以上であると誇示する煩悩。

 身近な現象で簡単に説明すると「知ったかぶり」である。

 とある話題の中で、相手の方が良く事情に精通している場合、「自分もそれ知っている」「自分はもっと知っている」と誇示してしまう煩悩だ。その知ったかぶりトークはウソや推測の内容になってしまうので、相手を不快な気持ちにさせてしまう可能性はとても高い。知ったかぶりはほどほどにするべきだ。

 会話の潤滑剤として、「ああ、それね、はいはい、知ってるよ、それで、それで?」とテンポや流れを良くし、相手に気持ちよく語ってもらうつもりで合わせる程度の「知ったかぶり」なら可愛い。しかし、相手が自分よりよく知っているコトが気に入らない、自分の方が優れていると誇示したい、話の主軸が自分ではないことが気に入らない、などなど、慢過慢に起因した態度が出てしまうと、相手は不快に思って当然だ。

 

「ちゃうちゃう、そういうのオレも体験したことあるで。オレにもよくあるけれど、こうするべきやで」

 このように、ウソや推測で語られると、しらけてしまわないか。

 

 このように、かぶせて自分の方がよく知っている、と話に割り込まれたらどうだろう。上手な知ったかぶりならまだしも、話の腰を折られたような不快感は残るし、半信半疑で話を聞かなければならない状況は、けっこう辛いし面白くない。今後、その者との関係に距離が生まれるだろう。

 だから、慢過慢の知ったかぶりの相手をしなければならない人の胸中は、

(なんだ、また知ったかぶりか。指摘しても関係悪くなるだけだし、話を合わしておいてやるか。まったく、どこまで本当かウソのか)

 とあきれており、引きつった笑顔をしていることだろう。

 

 さて、地獄と極楽のかわりめになるのが、そういった自己顕示欲が自分の中で働いていることを、自覚しているのかどうかという一点だ。

 無自覚ならば、その者は自己を誇張し続ける迷いの連鎖に身を起き続けることになる。「自分はスゴイ」と自分と周りにウソをつき続けることなる。慢心で尊大な気分は学習意欲を低下させるので、成長も芳しくないだろう。身の程を知ることは大切だ。

 では、自分が煩悩に酔って無自覚でいることをお知らせしてくれるモノは何かというと、他からのお知らせである。仏法ではそれを他力といい、照らし出された自己の真実に向き合う智慧が働いているのである。私はそのはたらきそのものが他力であると感じている。

この煩悩と似たようなバイアス……自信過剰効果、優越の錯覚、ダニング=クルーガー効果


我慢

自分が中心でないと不満に思う煩悩。自己中心的。

 ジコチューのことだ。

 幼子が、引っ繰り返って「あれ買って買って」と駄々をこねる姿は、最近見かけなくなったが、そういう煩悩である。

 思い通りにならないと不平不満をまき散らし周囲の人を困らせる煩悩。

 大昔の日本では駄々っ子に「我慢を控えなさい」と言ったそうだが、近代ではすっかり「ガマンしなさい」に省略・変化してきた様子。お坊さん的には、「我慢」(尾にアクセント)といえば煩悩のことで、「ガマン」(頭にアクセント)といえば日頃使う言葉として使い分けている。

 

 とある結婚式にてこんなことがあった。

 新郎親族の70代男性が、席次が不満だったらしく、大きい声で、「なんでオレがここやねん、どないなってんねん!」とスタッフに不満をぶつけて周囲を困らせていた。せっかくのお祝いの席が、傲岸不遜なオジサンのために沈鬱な空気になった。

 新郎の父と母が謝ったので、怒鳴った本人は満悦だ。甥の祝いの席で人を謝らせて喜ぶ姿はとても醜いものだった。席次は間違っていたらしい。不当な扱いを受けたとはいえ、祝いの席で怒鳴る神経もどうかしていると思う。そのオジサンも自己中心的で我慢を控えることのできない、ちょっとガマンすることができない、思い上がった思考が膨張しやすい生活習慣なのだろう。

 席次は血縁順位的に作らないといけないので、親戚多いと間違えることもあろう。

 昨今は新婚夫婦が「自分たちの結婚式だ」と言い張って式の段取りをほとんど決めて、両親はお金を出すだけ、というものが多い。古式に疎いが故に間違いも起ころう。確かに主役はお二人だが、自己中心的になりすぎて両親や周囲の意見を聞いたり、相談したり、確認してもらったりする姿勢がないのも悲しい問題だ。

 

 仏事とは、私は大丈夫かな、と我が身を振り返る時間を、仏前に座る時間として習慣化してきた証なのである。であるからして法事で法話があるのは大切なことなのだ。先のオジサンに今更伝えても、届きにくそうだが。

 

一 仏法者、もうされ候う。「わかきとき、仏法はたしなめ」と、候う。「としよれば、行歩もかなわず、ねむたくもあるなり。ただ、わかきとき、たしなめ」と、候う。『蓮如上人御一代記聞書』

この煩悩と似たようなバイアス……自己中心性バイアス、Always being right(常に私は正しい)


増上慢

さとりを得ていないのに、得ているふりをして驕り高ぶる煩悩。

 仏教学的に説明すると、釈尊が悟った「正覚」を、得ていないのに「さとりをひらいた」とウソを言う煩悩である。

 分かりやすく言うと「分かっていないのに分かっている」と言ってしまう優越錯覚作用だろうか。

 

 昔、拙僧の身にこんなことがあった。

 初めて法話講師の依頼が来た若かりし日、辛かった努力が報われた気がして、とても嬉しかった。

 そして有頂天になって同期の仲間に自慢してしまったことがある。

 その時の言い方も慇懃無礼で「いやはや困った、こんな若僧に身に余るご依頼。しっかりやれるか不安だ」みたいに言ったものだ。対してたいていの友人たちは「すごいじゃないか」とか励ましてくれるが、中には、

「おまえ、大丈夫か? 今よりもっと法話修練せねば恥かくぞ」

 と、本当の意味で心配してくれる者がいた。それにも関わらず、拙僧は彼に向かって「大丈夫じゃい、分かってるわい、ちゃんとできるわい」と口からでそうになるのを、心中になんとかおさめ、逆に敵愾心を抱いた。それぐらい、私は慢心していたのだ。それを見抜いての一言だ、尊い導きだった。友だからこそ、言うてくれたのだった。

 

 説法のご依頼が一件きただけで、なにか一流の講師の仲間入りした気分になって、修練を怠ってはいけないぞ、慢心してはいけないぞ、と、私を本当の意味で案じてくれた彼こそ、真の友であったと反省できたのは、しばらく経ってからだった。

 

 なかなか、慢心が邪魔して素直になれなかったことを打ち明けた時、

「ハハ、造作もない。俺も同じ体験したのよ」

 と、その男は快活に笑ってくれた。

 仏法を聞いている身だからこそ、指摘できたし、仏法を聞いている身だからこそ、復縁できた。

 

 尊い大切な導きが、慢が邪魔して受け取れぬ、なんとも迷惑な名利心だ。 

この煩悩と似たようなバイアス……自信過剰効果、優越の錯覚、ダニング=クルーガー効果


卑下慢

自分より優秀な者を指して、自分はそれより少し下だというふりをして驕り高ぶる煩悩。

 七慢の中で、これが一番手の込んだ煩悩だと言える。意識的にそうする者は多いはずだ。

 例えていうなら、自分は本来レベル10の能力なのに、レベル100の他者を指して「自分はあの者より少し劣っている程度だ」と言って、実際より自己を高く評価、アピールする煩悩だ。

 

 拙僧の知り合いに優しい頑丈な青年がいる。あだ名はゴリラ、あるいはゴリ。拙僧も古い仲なので憚らずゴリと呼ぶ。背丈は180㎝と大きめで、広い肩幅で筋肉隆々、楽しい男である。ただ残念ながら、あだ名の通り、その顔は幼い頃から現時点までずっとゴリラそっくり。まったく男前、イケメンではない。最近は腹もでてきて益々ゴリラだ。

 優しい男で、子ども好きで拙僧の寺の子ども会も世話人もしてくれる。「うっほっほ♪」と子どもたちをゴリラのマネで楽しませて大人気だ。「よくできたゴリラのお面だな、暑くるしいな、もうとってもいいぞ」「うるせえ、地顔だ地顔!」で始まる。

 

 ある時、普通にスーツを着て、普通に電車に乗ったところ、向かいの席の見ず知らずの女子高生が自分の顔を見て吹き出して、写真まで撮られたそうだ。

 またある時、コンビニで雑誌を立ち読みしていると、全く見ず知らずの小学生男児に、「うわ、ゴリラが本読んでる」と指さされ笑われたそうだ。

 後にこの話をしてくれた時、彼は、

「自分でゴリラのマネをするのは平気だが、他人から言われるのはとても腹が立つ」

 と教えてくれた。

 自己を卑下して表現している時は、実は本当はそうではないと思っている根性があるということだそうだ。

 

 拙僧も身に覚えがある。

 法話の場で教壇に立つと、大抵前の中心の方はだいたい席が空いている。端っこや後ろは大人気。端に座る方に「どうぞ前の方へいらしてください」と声かけると「いえいえ、私はここがちょうどいいです」と遠慮なさる。そこでもし拙僧が「そうですね、あなたには端っこがお似合いですね」と言ったら大変なことになるだろうな、と前に空席が多いときはいつも思っている。 


邪慢

間違っていても、正しいと言い張り、自分には徳がないのにあると思う煩悩。

 さて、七慢の中で、これが一番厄介な煩悩だと言える。親鸞聖人も正信偈に「邪見驕慢悪衆生」と、「衆生(人間)は、よこしまなモノの見方(邪見)で、自分は正しいと驕り高ぶって(驕慢)、まことに反省しない慙愧しない罪悪をもっている」と自分を含めてうたっておられる。

 自分の価値感、モノの見方は正しいと、思い込んでやいまいか。自分の立場と都合に執着して、それを正しい言い張り、それによって他者を傷つけてはいまいか。正しいものなど何もないのである。

 

 間違っていても自分は正しい、悪いのはアイツだ、という姿は政治家によく見かける。

 豊洲移転問題で世間が大騒ぎしている時、当時の最高責任者だった石原元都知事は追い詰められたあげくようやく記者会見を開き、「自分に責任はない、悪いのはこの問題を大きくして選挙に利用した小池さんだ」と呆れた開き直りをした。手を上げ質問して追求する記者がいると「おまえは誰だ、どこの記者か、ああ、あの低俗記事ばかり書くところか」と言って相手にしなかった。政治という間違いがあってはならぬ立場と都合上、間違っていました、ごめんなさい、と素直に言えないのだろう。 

 

 素直に非を認める政治は見たことない。謝罪会見があっても、その中身はいいわけばかりで、「世間をお騒がせしたことについては大変申し訳なく──云々」である。もはや常套句。非を本格的に認めるような発言をすると、訴訟された時にとても不利に働くから、謝れないのである。疑惑に留めておかないといけないという駆け引きだ、謝意を全く感じられない。

 この立場と都合に執着するあさましい姿はしっかり私たちにも働いている。

 

 ある男が浮気を指摘された時、こう返した。

「そのうわさには根拠がない、うそっぱちだ。彼女は男性にちょっかいかけられやすい体質で、複数の男性と関係があった。そのことを悩んでいたので、私はむしろ相談にのってあげていたのだ。その様子を浮気と誤解されてリークされ、私の方が被害者だ。ウワサした方を訴えることもできるが彼女の身を思ってそうはしない」

 などと、女性に罪をかぶせてまでして、自己を保存した。結果的にその男は信用をなくしていたが、非を認めない上女性に罪をかぶせる姿はとても不愉快だった。

 しかしながら、私も彼と同じ人間、同じ男である。教学的に言うと因縁生起と言って、彼と違って私が罪を犯していないのは、縁や条件がそろっていないだけで、私にも煩悩は働いている。拙僧には浮気などする気もできるような甲斐性もないが、気をつけようったら気をつけよう。