不和合

人と人とが仲良くできない煩悩。

 ある時、高齢の母親の介護をしていた娘さんがこんな言葉をつぶやかれた。

 

「……本当は、優しく寄り添ってあげたかったのに」

 

 察するに、朝、自宅にて、家族に食事を食べさせたら家事をこなして、車で母親宅へ20分。こちらでも家事をして買い物をして洗濯をして……。

 娘に迷惑をかけまい、自分でできることは自分でしないと。そう思った母親はトイレへ向かうが間に合わなかった。

 

「もー! お母さん無理しないで! 余計な仕事増やさないで!」

 母親に辛く当たるようになり、イライラした視線と辛辣な言葉を浴びせてしまった。

 

「……本当は、優しく寄り添ってあげたかったのに」

 

 時間、効率、お金、疲れ、将来への不安と模索、そういったものが心を支配していたそうだ。

 心を亡くすと書いて「忙」と「忘」。

 効率に追われてとてもじゃないけれども優しくできる余裕はなかったのだろう。

 本当は仲良くしたいのに。優しい言葉をかけてあげたいのに、自己の立場と都合が優先されて失念してしまう業が身に働いている。それはいつの時代も変わらないようだ。

 

 ──釈迦在世の時代、古代インドにマガタ国という国があった。

 商業を発展させ他国に負けない国を目指す阿闍世という王子は、従来通りに農耕中心で治世する父・浄飯王を、それまでの不仲と悪友のそそのかしも災いして、父王を殺害し王位を簒奪した。

 王となった阿闍世は後に、深層から沸き上がってくる激しい後悔の念から重い病に伏し、名僧医はこう告げる。

「王は貪欲に夢中になり、本当の心を見失っておられた。父を殺すことがあなたが本当にしたいことではなかった」(闍王貪酔せり、本心の作すにあらず。「大般涅槃経」)

 自分の都合で父を殺すという大逆悪を犯し、本当は父を愛していたという埋もれていた清浄なる本性に気づき、度しがたい自己に目覚め、こころの底から救いを求めて釈迦の教えに帰依するようになった。

 

 阿闍世がこころの底から求めた救いを「本願」という。もとからあった願い、奥底に隠れた本当の願い、本当にこのいのちが求めているもの。この願いはつねに途切れることなくすべてのいのちに働いている。それが届けられている証を南無阿弥陀仏と申すのである。

 

 【不和合】という、この煩悩は修行したら克服できるのかといえば、ありえない話である。人間は常に本当にしたいことを忘れて立場と都合に忙しい。時々仏法を聞いてハッっと反省することがあっても、忘れる仕組みになっていて継続できない。持続させようと努力しても、競争社会という娑婆(シャバ)がゆるしてくれない。そのような雁字搦めで苦悩の連鎖に溺れ続けるしかない。自力ではどうしようもない凡夫を、阿弥陀如来は必ず救うと誓っているのである。