忿

 瞋恚に付随して起こる。怒り。いきどおり。思い通りにならないと激怒して、暴力をふるおうとするぐらい激しい感情になる煩悩。この煩悩は粗暴な言動を生み出す。

 思い通りになれば喜び、思い通りにならないと悲しんだり怒ったり、これは人間の常にある心の働き「瞋恚」である。そして思い通りにならないときに、さらに激しく憤ること、すなわち理性的に制御できない怒りを「忿」という。それはどんな状況なのだろうか。

 ある罪を犯した青年によると、「実はそこまでキレたことはない。キレているフリをして周囲を支配しようとしていた。『おれらのリーダーはキレたら何するか分かんねーアブないヤツ』と思わせて、他人を思い通りにしようとしていた。記憶がなくなるほど、ぶっちキレたことはなかったと思うよ」だそうだ。

 彼がいた非行グループではそれがルールになっていたのだろう。粗暴なふるまいでいながらある意味冷静な狡猾さが見える。

 

 対照的に、「プッツンする」「キレる」のはどんな状況なのだろうか。拙の人生ではお酒の場でそれをよく見かけた。

 私が20代だった頃の宴会の席で、ある青年がプッツンとキレて上司を胸ぐらを掴み、空中へ持ち上げて壁におしつけ、あわや大惨事という場面に遭遇したことがある。止めに入った同僚も同じように締め上げられ中に浮いた。すごい力だった。拙も腕にしがみついて止めようとしたが、腕は鉄のようにガチガチになっていた。

 後日青年に話を聞くと、「それほど酔っていたわけじゃなかったが、その上司とはもともと根深い不仲だった。キレる瞬間までの記憶はしっかりある、とても許せない一言があって、そこから自分がいなくなった。気がつけば惨状となった会場にいた」

 私も同席していたからよく分かる。確かに前後不覚になるほど深くお酒を飲んでいなかった。

 その青年はヤンチャなアニキ肌の人物で、若い後輩の面倒を良く見るタイプ。裏表なく不満な時は不服そうに大きく態度に出して、楽しいときはひたすら面白い人物だった。聞けば若い時は不良少年で未成年喫煙飲酒をしたり、不良仲間と非行を楽しんでいたそうだ。

 

 未成年の喫煙飲酒は重大な罪である。脱線するようだが、拙僧は未成年飲酒と人格の形成についてとても関心があるので少し述べさせてほしい。

 大人には未成年にお酒を飲ませない義務がある。臓器などへの健康的な問題だけではなく、脳科学的、こころの発達的に、社会への適応能力に障害をきたすことがあるからだ。

 拙僧はカウンセリングをする際に、来談者が中年以上であれば、先ずアイスブレイクを兼ねてお酒は好きかとかどんな酒がいいかなどの共通の話題をする。お酒の好みまで話してくれたらだいたい気を許し始めてくれているので、良し!とする一方、そこから「何歳くらいからどれくらい飲酒するようになりましたか?」と聞いてその返事を一つの参考ポイントにしている。

 未成年飲酒は脳の発達に著しいダメージを残す。特に前頭葉と扁桃体・海馬の連携の発育を阻害する。前頭葉は理性、扁桃体は欲求などの感情を司っている。

 

 少年期:「勉強したくない(欲求・扁桃体) > でもやらなきゃ(理性・前頭葉)」

 思春期:「勉強したくない(欲求・扁桃体) = でもやらなきゃ(理性・前頭葉)」

 青年期:「勉強したくない(欲求・扁桃体) < でもやらなきゃ(理性・前頭葉)」

 

 といった具合に、幼児期の欲求優先的な思考から、徐々に知恵や理性が育ってきて、思春期でやっと均衡して大きなストレスになる。このように理性と欲求お互いに反応しあって感情や思考が表象されるようになっている。

 人類は欲求を実現するために、合理的・効率的に物事考えるように進化してきた。だから前頭葉を含めた(新)大脳はこの(旧)海馬・扁桃体などがある小脳を抑え包むように進化してきたのだ。理性が本能を押さえ込むような形に見える。人間にしかない、とても複雑ですばらしい深遠な働きだと思っている。

 さて、成人した脳でも血中アルコール濃度が高くなってくると度合いに応じて脳全体がしびれ、前頭葉と扁桃体の連携を悪くしてしまう。つまり、理性が働きにくくなるのだ。成人した脳ならば痛飲しても回復できるが、未成年の脳神経にはダメージが残る。少年期から常習的に飲酒をするような事態なると、発達が不十分になって欲求を抑える働きが弱くなり、成人しても知識はあるがガマンが苦手だったり粗暴な言動をする人物になりやすく、社会への適応能力に問題をきたす例は多くある。

 

 身の回りに、未成年で飲酒するような者があれば、やめるよう伝え、間違っても肯定するようなことはあってはならない。それがお酒を欲し、お酒を生産し、お酒を流通させている、大人の責任である。

 

 アルコールと理性と欲求の関係について述べたが、逆に言えば、「欲求を理性で押さえ込んでいる」ということである。

つまり、もともと脳内に「忿」の因がちゃんと備わって働いており、それを上回る煩悩で抑えているということだ。

 先ほど、人類は欲求を実現するために、合理的・効率的に物事を考えるように進化してきたと述べたが、格好良く知性的に聞こえるがこれは、煩悩を満たすためにさらなる煩悩が働くようになってきたということである。

 たとえば、「忿」を顕わにせず冷静に対処できるということは、「この場で怒りを顕わにしても得がなくむしろ損だ」などと、瞬間的に無自覚に先を見通して、できるだけ損せずに得の多い方策について考えているということである。これは「貪欲」「渇愛」あたりの煩悩が該当する。

 

 「忿」の煩悩が表出する時、つまり意識がプッツンするくらいに激昂することは、アルコール関係なく誰にでも起こりえる。仏教ではそれを因縁生起と考える。現前の事象は、まず原因があって、条件が整った結果であると考えるのだ。親鸞聖人も「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいをもすべし」と、人は条件次第でどんなことでもしてしまう、と述べておられる。

 我々有情には、有であると執われている故に、この「忿」という煩悩を「貪欲」などの煩悩で抑えて、少しでも損せず得の多い方法を選んでいるのである。煩悩で煩悩を抑える、とても危なっかしい、はずみでどこへ飛んでいくかわからない煩悩の身が、奇跡的にバランスをとってなんとか生きている。