有身見

いのちに自我があると誤解する見。それによって事象に対して所有に執われる煩悩。五悪見の一つ。

 仏教は無我、空(くう)を説く。

 では今ここでモノを考え実行しているこの意識は何なのか。

 難しく説明すると、その自我意識は、縁の集合体なのである。無始時来より、経験、体験、習慣、認識、考えや思いなどの種子(縁)が、複雑に積み重なって摂蔵されて、そこからたまたま今ここにある私たちの自我意識や心が表象されているのである。すなわち因縁生起である。よっていのちの実態は無我なのだ。それを有我と見てしまう煩悩を【有身見】という。

 我(が)のような不変不滅の何かが自我の中核にあると、勘違いさせてしまう煩悩だ。そして、どれほど仏教の学びを深めたりたくさん修行を積んだとしても、凡夫は「自分には我が有る」という幻想への執着から離れることができないのだ。常に無自覚に執着し続ける業を背負っており、その煩悩が原因として苦悩する連鎖の中にいるのである。

 自他、万物の中に「有」(う)を見てしまうので、それによって対象を間違って認識して、所有欲や我執、執着が起こり苦悩する原因になる。

 凡夫は自分の意識や他者や事象を、コントロールしているつもりだが、実態はごく一部を操っていると錯覚しているだけなのだ。本来実態のないモノを有と見るとはそういうことである。

 

 自己および他者、事象への所有欲は苦悩を生む。本当は実態は空であり自分のモノではないのだ。

 

 ある罪を犯した青年から、こんな話を聞いた。

 子どもの頃、母親が自分に対して過大な期待と過干渉をしており、苦しい少年時代・思春期だったそうだ。

「少年時代、外で友達と遊んでいても、17:00までには家に帰らないと、母親にカギを閉められ家に入れてもらえなくなった」

「だから友達の親などに頼んで、定時を少し過ぎてしまいます、とウソの電話をしてもらったりして、子どもの頃から、『親などを騙す』『親の目を盗む』ことをよく考えていた」

「勉強、塾、お稽古と、スケジュールも母親が管理していた」

「私立中学に進めたが、母親はこんなレベルの低い学校!って怒鳴って、入学式の時、校門前の記念撮影に写ろうとしなかった。その時からコイツだめだと、母親はすっかり俺にとって敵になったのよ」

「中学生になっても、所持金と貯金は全部管理されていた。何にいくら使ったかノートに書いて報告しないといけない。そして無駄遣いしてはダメだとかもっと賢くお金を使えとか言われて、ペナルティが小遣いの額に反映された。つまり自分の金じゃなかった。親の言うとおりに使わないとダメだったから」

「コンビニの不要な領収書をがっさり盗んで、そこから使っても怒られないだろうレシートを探し、それでウソの報告をして好きな物を買えるお金を作ったりもしたな」

「だからとにかく自分の思い通りになるお金が欲しかった。劣等感や鬱屈した根性もはたらいて、友達から盗む、いじめとカツアゲなど、中学の頃からすっかり親や教師にバレないように陰湿な非行をしていた。いじめとカツアゲ、オレはバレたことない。すげえだろ? そういう仲間とつるむようになって、仲間も俺のために親によくウソついてくれた。仲間と一緒に痴漢狩りと称して、痴漢したサラリーマンから恐喝したこともあった」

「やがて両親、特に母親とは決定的なケンカをして、高校を中退。まえから頼っていたチンピラのアニキの家に転がり込んで、ほぼ黒のグレーな仕事ばかりしていた」

「特に、女を騙して儲ける非道な仕事だったね」

「気がつけば、タバコを吸うレベルで平気で麻薬依存症になり、檻の中よ。ここまで自分を振り返ることができたのは、教誨師の坊さんがずっと話を聞いてくれたからだ」

「でもこれは反省じゃない。もう大人だから、自分でなんとか生きていかないといけないけれど、母親へのコンプレックスは消えそうにない。人生を初期からメチャメチャにされたという被害者意識がずっとあって、性格や行動に強く影響している。自分の犯した罪の意識や、被害者への謝罪の気持ちとか、ロールレタリングさせられたりしたが、うわべだけの謝罪文で、本当の反省じゃない。少しも自分が悪いとは思っていない、逮捕されて運が悪かった、ぐらいしか思っえない」

「公判の時、弁護士交えて母と対話する機会があったが、あの女は、コイツはもう息子じゃないと言いやがった。自分の育児は、間違っていたと一つも思っていなかったよ」

「あの、話を聞き続けてくれていた坊さんに免じて、今は、ルールは破らないように生きるつもりではいるが、もうやり方がわからないよ。ずっとバレないように、騙すようにと生きてきたから」

 

 古来よりコンプレックスの解消は至難だ。

 母親は有に執らわれ息子を愛することと所有欲を混同して大きな苦悩を生んだ。きっと母親にも言い分があって、自分の息子が全く言うこと聞かない、デキの悪いことだと嘆いていたのだろう。そこには自己を正しいと思い込み、他を所有化しようとする煩悩が間違いなくはたらいている。

 そして青年も、いくら自己とは無我であり、無辺の可能性があり、まだまだこれからが大切だ、とかお知らせされても、「私はこういう人生・人物・性格である」という自我への執着から離れることなど、自力でできるはずがない。コンプレックスの解消は、とても困難なことなのだ。それだけ自我に執着している。

 だから仏法にヒントを求めてさまよい続けている。ようこそようこそと、ただ傾聴し、本願念仏について少し話すくらいしか拙僧にはできず、自分を含め、人間の我業の深さに対して無力を痛感する。

 

 我(が)のような不変不滅の何かが自我の中核にあると、勘違いさせてしまう煩悩。そして、どれほど自力努力を重ねても、凡夫には離れることができない。常に無自覚に執着し続ける業を背負っているのである。

 

 我に執らわれ、苦しみ嘆き続ける業苦の中にあって、解脱することのできない凡夫を、決して見捨てぬぞとはたらき続ける仏がある。それを南無阿弥陀仏と申すのである。

 

※青年と母親については人物特定がされないように変換しています。