顛倒

仏の教えを逆さまに受け取る煩悩。物事を逆さまに受け取ること。

 口に出さずとも察する、察してもらうというような、気遣い文化は日本特有に発達して、悪い部分もあるが、私は美徳だと思っている。しかし国際社会の中では我を通さないと損をする、言った者勝ち競争だ。我が国にもそのような個人主義が増長してきて、今日ではその気遣い文化消えつつあり寂しく思う。

 

 これは夏の月参り先であったこと。

おばちゃん:(御院さん暑い中、ウチまで来て下さって、有難いなぁ。しかもちゃんと着物着て暑そうだ。冷房を入れてあげよう。──ちょっと寒いな、でも、冷房切ったら暑くなって御院さん困るだろうし、あそうだ!)

おばちゃん:「ねえ御院さん、今度からウチの月参りはアロハシャツでよろしいでっせ」

拙:「そうでっか、ほなアロハシャツ着て参らせてもらいまっせ、って、なんでやねん」

 ──気を遣っているつもりが、逆に迷惑になる。

 

 こんな小咄は主従顛倒とか本末顛倒などと四字熟語の方だ。ちなみに、拙僧は着物の生地を紗にしたり、形状にも工夫がしてあるので、お気遣いお構いなく。

 これで済むならいいが、【顛倒】の本来の意味はやはり煩悩であり、「仏の教えを逆さまに受け取る」ことである。

 「お説教は耳が痛い」というのは、昔から言われてきたこと。なぜならこのサイトのように煩悩を指摘するからである。煩悩の業の最中にいる私たちには聞きづらくて当然なのだ。だから拙僧は法話する時、師からは重々「難しきことをば面白く、優しきことをば有難く語れ」と言われており、常にそう心掛けている。それぐらい「仏法聞き難し」なのだ。そして聞く縁があっても、膝を叩いてなるほど!と思っても、娑婆に帰るので失念するように業がはたらいている。それを煩悩という。

 阿弥陀如来が、

「どのような状況にあっても、どれほど煩悩に狂わされる業の中にあっても、汝のいのちは量りしれなき尊きいのちなのだ。そのことに真に目覚めよ。汝を決して見捨てない、諦めない。心配するな、大丈夫だ。その苦しみ、悲しみ、全て引き受けた。そのまま摂め取る。さあ我が名を称えよ、必ず極楽浄土に往生する」

 と、休むことなく呼びかけ続けて下さっているのに、我が身は少しも煩悩から解脱して浄土へ参りたいなどと思わないでいる。「そのうち行きますから、その時よろしく」という程度である。常に寄り添いはたらき南無阿弥陀仏と成ってくださっているのに、なんと浅ましいことだろう。

 常に病的に損得を考えて、物事を値踏みして自分の立場と都合で忙しく、少しも「量りしれなき尊きいのち」に帰ろうと思わないでいる。

 つまり、凡夫というのは、仏の教えに反した、いのちの真理に対して【顛倒】した生き方をしているのである。

 教えても学んでくれない子どもを、見捨てたりせず、むしろ無条件に、情熱的に、一緒に悩み、一緒に悲しみ、常に支え続ける暖かい母親のような、仏さまの大慈悲である。

 その大慈悲に対しても、【顛倒】した態度で生きている。私たちにできることと言えば、感謝報謝のお念仏くらいだ。