卑下慢

自分より優秀な者を指して、自分はそれより少し下だというふりをして驕り高ぶる煩悩。

 七慢の中で、これが一番手の込んだ煩悩だと言える。意識的にそうする者は多いはずだ。

 ゲーム感覚で例えるなら、自分は本来レベル10の能力なのに、レベル100の他者を指して「自分はあの者より少し劣っている程度だ」と言って、実際より自己を高く評価、アピールする煩悩だ。

 

 拙僧の知り合いに優しい頑丈な青年がいる。あだ名はゴリラ、あるいはゴリ。拙僧も古い仲なので憚らずゴリと呼ぶ。背丈は180㎝と大きめで、広い肩幅で筋肉隆々、実に楽しい男である。ただ残念ながら、あだ名の通りその顔は幼い頃から現時点までずっとゴリラそっくり。まったく男前、イケメンではない。最近は腹もでてきて益々ゴリラだ。

 優しい男で、子ども好きで拙僧の寺の子ども会も世話人もしてくれる。「うっほっほ♪」と子どもたちをゴリラのマネで楽しませて大人気だ。「よくできたゴリラのお面だな、暑くるしいな、もうとってもいいぞ」「うるせえ、地顔だ地顔!」で始まる。

 

 ある時、普通にスーツを着て、普通に電車に乗っていたところ、向かいの席の見ず知らずの女子高生が自分の顔を見て吹き出して、写真まで撮られたそうだ。

 またある時、コンビニで雑誌を立ち読みしていると、全く見ず知らずの小学生男児に、「うわ、ゴリラが本読んでる」と指さされ笑われたそうだ。

 後にこの話をしてくれた時、彼は、

「自分でゴリラのマネをするのは平気だが、他人から言われるのはとても腹が立つ」

 と教えてくれた。

 自己を卑下して表現している時は、実は本当はそうではないと思っている根性があるということだそうだ。

「おまえ、もしかして自分のことゴリラじゃないって、思ってたのか?」

「あそうか、最初から自分はゴリラじゃないって心のどこかで思ってたんだなって、なんでやねん」

 

 

 拙僧も身に覚えがある。

 法話の場で教壇に立つと、会場の方は大抵前の中心の方はだいたい席が空いている。端っこや後ろは大人気。端に座る方に「どうぞ前の方へいらしてください」と声かけると「いえいえ、私はここがちょうどいいです」と遠慮なさる。そこでもし拙僧が「そうですね、あなたには端っこが丁度良いですね」と言ったら大変なことになるだろうな、と前に空席が多いときはいつも思っている。

 

 

 また話は変わる。

 法話が好きな人なら分かる話だが、講師にとって「あの先生はこうおっしゃってる」と、先人のことばや教えを引用して法話を組み立てて行くのはごく当たり前のことである。引用内容に対する勉強が浅いうちはただ解説するしかないのだが、その内だんだん自分の言葉になっていって、通して体験したことや、その感動表現、遺してくれたことへの感謝の気持ちなどが混じってきて深い味が出てくる。それを聞くのが聞法の醍醐味だと思っている。

 ところが講師の中には、

「あの先生はこうおっしゃってる。なるほど、私も同じ思いでした」

 と、高名な先生に口先だけで自己を近づける者もいる。拙はそういう慢の話を聞くと一気に覚めてしまうからまだまだ聞法が足りないなぁと実感する。他にも、

「あの先生はこうおっしゃってますが、私はちょっと違うと思うのです。こうじゃないかと」

 と、高名な先生のことばにケチをつけて、自己アピールする者もいる。

 沢山聞法してきたが、だいたい卑下慢を上手にするご講師は人気が無いw。影で嫌われていたりする。

 

 昔、恩楽寺の定例のある講師がよくこう話してくれていた。

「あの先生はこうおっしゃった。その時、私は、アア、そうだったのか。長年もやもやしていた思いが、端的な言葉で言い表され、私をご指摘くださった」

 と、感動を伴った表現をされていた先生がいた。そのフレーズ何度も聞いて、私はその度に感動していた。教えとの出遇いの瞬間の新鮮な気持ちを、先生自身が深く感動して、その感動を伝えるために当時の気持ちを呼び起こして何度も語ってくださったからだ。だから何度も感動できた。録音があるので何度も聞けるが、もう浄還されてしまったので、心に穴が空いたようにさみしいことこの上ない。頂戴したご指導がこの身に生きている。お浄土からの還相回向(説教)に頭が下がる。

※筆者について以外の各エピソードは個人を特定できないように、内容を変更しています。