邪慢

間違っていても、正しいと言い張り、自分には徳がないのにあると思う煩悩。

 さて、七慢の中で、これが一番厄介な煩悩だと言える。親鸞聖人も正信偈に「邪見驕慢悪衆生」と、「衆生(人間)は、よこしまなモノの見方(邪見)で、自分は正しいと驕り高ぶって(驕慢)、まことに反省しない慙愧しない罪悪をもっている」と自分を含めてうたっておられる。

 自分の価値感、モノの見方は正しいと、思い込んでやいまいか。自分の立場と都合に執着して、それを正しい言い張り、それによって他者を傷つけてはいまいか。正しいものなど何もないのである。

 

 人の上に立つような、責任のある立場の人は、その決断が他者や組織のの命運を左右することになるので、間違いがあってはならないと心構えを持って従事していることだろう。しかし誰にでも判断ミスや失態は起こりうる。その時に素直に謝罪ができる人はどれくらいいるだろうか。娑婆では責任が重くなればなるほど素直な謝罪が難しくなるようになっている。

 

 間違っていても自分は正しい、悪いのはアイツだ、という姿は政治家によく見かける。

 豊洲移転問題で世間が大騒ぎしている時、当時の最高責任者だった石原元都知事は追い詰められたあげくようやく記者会見を開き、「自分に責任はない、悪いのはこの問題を大きくして選挙に利用した小池さんだ」と呆れた開き直りをした。手を上げ質問して追求する記者がいると「おまえは誰だ、どこの記者か、ああ、あの低俗記事ばかり書くところか」と言って相手にしなかった。政治という間違いがあってはならぬ立場と都合上、間違っていました、ごめんなさい、と素直に言えないのだろう。 

 

 素直に非を認める政治家は見たことない。謝罪会見があっても、その中身はいいわけばかりで、「世間をお騒がせしたことについては大変申し訳なく──云々」である。もはや常套句。非を本格的に認めるような発言をすると、訴訟された時にとても不利に働くから、謝れないのである。疑惑に留めておかないといけないという駆け引きだ、謝意を全く感じられない。

 この立場と都合に執着するあさましい姿はしっかり私たちにも働いている。

 

 ある男が浮気を指摘された時、こう返した。

「そのうわさには根拠がない、うそっぱちだ。彼女は男性にちょっかいかけられやすい体質で、複数の男性と関係があった。そのことを悩んでいたので、私はむしろ相談にのってあげていたのだ。その様子を浮気と誤解されてリークされ、私の方が被害者だ。ウワサした方を訴えることもできるが彼女の身を思ってそうはしない」

 などと、女性に罪をかぶせてまでして、自己を保存した。結果的にその男は信用をなくしていたが、非を認めない上女性に罪をかぶせる姿はとても不愉快だった。

 しかしながら、私も彼と同じ人間、同じ男である。教学的に言うと因縁生起と言って、彼と違って私が罪を犯していないのは、縁や条件がそろっていないだけで、私にも同じ煩悩が働いている。拙僧には浮気などする気もできるような甲斐性もないが、気をつけようったら気をつけよう。

 

 全面的に非を認める時はどんな時か。

 いいわけ材料が乏しいので誠意ある謝意を示した方が得だと認知した時と、傷つけた相手の痛み悲しみが重く自分のものになった時だ。

 怒られたり指摘されたとき、誰もが先ず「いいわけ」を考えてしまうように、立場と都合に執着して己の行いを正しい言い張り、よって他者を傷つけ損なうことがあってもまだ「自分は正しい」としてしまう業を【邪慢】という。

 そもそも正しいものなどないのである。それでも私たちは自分で自己を肯定しないと立つこともままなぬ生き方しかできない。罪を重ねる業苦の中で、先人たちが求めて守り続けた光が宗教であり、仏教なのだ。

※筆者について以外の各エピソードは個人を特定できないように、内容を変更しています。