そのモノを強く執着・依存し、欲するこころ。人間の根源的な欲望。

 仏教学的には「愛」という語は迷いの根源として、渇愛、貪愛、痴愛、恩愛などと否定的に把握される。渇愛の原義は「渇き」であり、根源的な衝動欲求が人間の奥底にてはたらいている。

 

 人間の、家族や仲間を大切に想うこころも、この煩悩に起因するところなのだろうか。

 

 2020年──、以前から、傾聴させていただいていた、尊いお同行が50代と若くして浄還された。癌で、余命すくなく、当寺の定例法話に子どもも連れて足繁く参られ、

「阿弥陀さまのところへ参らせてもらうので、死ぬのは怖くないけれど、家族が」

 と、残す家族子どもの心配をいつもされておらた。次回の定例法話も来るつもりだったそうな。もう、立場は逆になってしまって、浄土から既にお説法されておられるのだろう。ただもうすこし、おしゃべりしたかった。思い出すと今もさみしい。彼の命日は、私にとってもとても重い。

 葬儀の時、お子さんが力こめて合掌お念仏されていた。嗚咽するでもなく、ただ静かな涙の筋を作りながら、ハッキリした発音で南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えていた。そして火葬の時、父を求めて泣く声に、会場にいた全ての者が涙した。その子の悲壮な決意のこもった念仏と父を呼ぶ声が、たまらず、身に堪えて、誰かに聞いて欲しくて、仲間や家族に打ち明けた。悲しかったが、そうかそうかと、仲間や家族が私の背中をなでてくれた。

 

 もっと以前──、ある時、当院門徒女性からこんな話を聞いた。

「主人を亡くしてからしばらく、毎日泣いていたの。そしたら小姑に『いいかげん切り替えたらどうなの。仏法では煩悩といって、異常に執着して依存しているから、失った時とても辛いというのよ』って言われてね。信じられなかったの」

 その小姑も夫を亡くしていて、確かにその時の葬儀では小姑は毅然としていた。

「確かに正しいことなのかもね。執着しているから、苦悩するんだと」

 迷いと苦悩の原因は煩悩があるからだ。

 

「でも愛しいと想うコトやその人を失った悲しみが、執着や煩悩だというのなら、私は煩悩のままでいいわ。とても小姑みたいに気丈に振る舞うなんてできないと思ったわ」

 

 拙僧は色んな葬儀を執行し、その別れの現場から聞こえてくる様々な想いから、次のように習った。「別離の悲しみが深ければ深いほど、その者を大切にしていた証である」と。

 

 仏法では、渇愛や貪愛であると、執着・煩悩であると教え習う。確かに私たちを苦しめる原因だ。

 いくら無分別智、無差別智の菩薩の眼差しについて聞き習っても、拙僧自身がそのようになれるとは全く思えない。

 我が身は有縁のみ大切する、狭き愛情しか持てぬ、浅ましき身なのだ。そのような浅ましい私のために、見捨てず働く阿弥陀仏の無縁の慈悲を感じる時はある。しかし継続しないであっという間に失念する。

 仏さまのように継続して、まったく平等に、事象を無分別に観察できるわけがない。この身は煩悩具足であると理解していても、煩悩のままに生きるしかない。これを煩悩具足という。

 

 だからこそ阿弥陀如来は、

「そうかそうか、それでいい、そのまま救う。煩悩のままでよい、心配するな、大丈夫だ。必ず浄土に救い取る。さあ我が名を称えよ。見捨てぬよ、あきらめぬよ、ずっと汝をささえておるよ」

 と大悲をたれたもうておられるのだ。

 愛に執らわれ、故に愛しき人との別れを嘆くしかない、こんなどうしようもない私たちに「そのままこい、全て如来の方で解決する」と大悲がはたらいているのだ。なんと有難いことなのだろう。

 自力で煩悩を滅することのできない我等には、この本願にお救い頂く他に、何の道があるだろうか。

※筆者について以外の各エピソードは個人を特定できないように、内容を変更しています。



コメント: 1
  • #1

    内家英輝 (金曜日, 30 7月 2021 09:40)

    南無阿弥陀仏