恨(こん)

 恨みのこと。

 心でくすぶり続ける恨みを生む煩悩。

 抑圧され、どうにもならないこと因縁を恨み続ける業苦を生む煩悩。

 【瞋】の小随煩悩。

 ある時、人生設計の上に置いて、大切な資金を詐欺で奪い取られたという人から人生相談を受けた。

 その加害者である詐欺師は逮捕され罪を償うことにはなったが、奪われたお金が返還されることは現実的ではなく、全く戻ってこないそうだ。

 

「──加害者を心の底から恨んでいる。憎くて仕方が無い。そして自分はなぜもっとよく考えなかったのか、詐欺行為を信じてしまった自分も情けなくて辛い。よく考えて決断した上で投資したつもりが、こんなことになるなんて。

 そして恨んでも悔やんでも、もうお金は返ってこないのだから、いい加減気持ちを切り替えて前へ進みたいと真剣に考えているのに、それもできないほど恨みと悔やみに執らわれていて苦しい。助けてほしい。」

 

 聞けば聞くほど、その方にとって本当に大切な資金だった。

 八方塞がりで追い詰められて、心を病んで体調を崩し、人生設計が全て狂い、未来に希望を見出すことができなくなり、自死寸前まで追い詰められて、ボロボロになって恩楽寺にその人は流れ着いた。

 聞き手となった拙僧も、深く同情し、人をここまで追い詰める詐欺とは、何と卑劣な犯罪なのか思い知った。

 傾聴を繰り返して、最後にとある恩楽寺門徒(故人)の生涯と、親鸞聖人の言葉を次のように法話した。

 

 

「恨んでも、後悔しても、状況が改善しないことは理屈で分かっていても、恨んで後悔することを繰り返してしまい、どうしたらいいのか分からず、苦しい」という気持ちについて。

 

 恩楽寺は多くの方と共に生きています。そして多くの方の葬儀を執行してきました。その中にこんな方がいました。

 

 ──ある高齢の男性がいて、拙僧によく話してくれたのが、自身が若い時に、幼い長女をとても理不尽な交通事故で亡くしたことでした。生涯その子の弔いを続けながら、恩楽寺と共に生きてくれました。総代役員も務めていただきました。役員会などでお酒が入ると、「どうしてあんな道で、あんなにスピード出しよったんや」と相手ドライバーへの恨みと、「どうしてあの日はオレはあんな油断をしたんや」と強い後悔の思いを、涙と共によくこぼしていました。拙僧たちお寺の者や、友達の門徒さんたちは、ただ共に泣くしかできませんでした。そんな辛い思いをぶつけるように、町会の活動に積極的に参加して、近隣小学校児童の登下校の見守りを実直に約30年続けながら、晩年までずっと、「どうしてスピードを」「どうしてあの日おれは」と繰り返しておられました。その方の影響で今でも町会の方々はみんな真剣な気持ちで、登下校見守り活動を精力的に勤めています。

 その方の思いを聞いてきて、そして葬儀を勤めた拙僧としては、生前から亡くなった今でも、心から尊敬し、命日の度に親愛の念を抱いています。命日や法事の度に胸が熱くなります。そして、自分の家族を守り、交通ルール遵守すべしと心に誓いを改める機縁となり、ますます仏前に頭が下がります。

 ご本人は思い出す度にさぞかしお辛い人生だったでしょう。

 しかし拙僧には、その方の生き様が実直で格好よくて、そして美しく亡くなってゆかれたようにしか見えてなりません。

 失う辛さ、解決しない憎しみ、大きな後悔がよく身に染みて、いつも考えている人だったので、他者や家族に厳しくて優しくて、そしてよく酒を飲んで、よく泣いて、お孫さんを心から自慢する、いいお爺さんでした。奪う人間を憎み、奪われる人間の気持ちを訴え、苦しい人に寄り添って共にただ泣く、そういうお爺さんでした。

 思いや願いや行いが、その人の心身によく染みつくことを【薫習】といいます。縁によって自然に備わっていくということです。

 どれほど強く願っても、失った大切な物を取り戻すことはかなわないのに、諦めきれない気持ちを煩悩【執着】といいます。我々凡夫は執着せずには生きられない生活様式の業を背負っています。大事にして失う、大切にしているのに奪われる繰り返しの人生です。それを「わかっちゃいるけどやめられない」悪人である我々の人生を、阿弥陀如来は「業を生きねばならないその苦しみ悲しみ、よう分かった、全て引き受け如来の方で解決する。南無阿弥陀仏をとなえ全て任せよ。そのままでよい。そのまま救う」と悪人こそを救うと本願を立てられたのです。決して見捨てることのないお慈悲が人間にはたらいています。たとえ信じられなかったとしても、仏が見捨てることは決してありません。如来は信・不信を問わず無条件なのです。

 

 円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智(親鸞聖人)

  

 世界の隅々まで融け染みこんでいて、人間を浄土へ至らしめる究極の徳である、南無阿弥陀仏(嘉号)は、わたしの都合の悪いものをすっかり転じて、徳に成就させてしまう、純粋なる智慧であります。

 よって独りで憎しみ後悔しているのではなくて、阿弥陀仏が常に「そうかそうか」と共にあります。

 憎む気持ちというのは、醜いように見えますが、如来の慈悲の中では導く光になります。

 後悔の気持ちも同様で、その時間が勿体ないように思えますが、阿弥陀の智慧の中で他を慈しむ心になります。

 仏の智惠と慈悲の中で、その晴れぬ苦悩を大切にしながら、誰かと共に生きましょう。

 

 

 先の相談者も、大切にしているものを奪われる辛さを知った人間として生きることになる。その分、他者に優しくなれるのではないだろうか。その生き様が、誰かの支えや導きになるだろう。

 

2022/10/30 釋大信

※筆者について以外の各エピソードは個人を特定できないように、内容を変更しています。