自分をおごり高ぶること。驕と慢はよく似ているが、慢は他人と自分を比較して高慢になることで、驕は他との比較の意識は少なく、自分を思い上がること。

 面白いバイアスに「イケア効果」というものがある。自分で作ったものは上等に見える、という心理作用だ。そういう意味で常に我が目は疑うべきである。

 

 拙僧は、大阪教区の通信に掲載する仏典マンガの編集委員会にも参加している。今はジャータカ物語を題材、参考にして考えたネームを編集会議で皆でたたき合い、漫画家さんにラフを作ってもらって、最終確認して発行される。

 ネームを作って、みなで検討したとき、やはりちょこちょこ変更がでてくる。たたき台なんだから、たたかれて当然なのに、叩かれた時の拙僧はとてもムスっとしている、らしい。自分では分からないのだ。

 

 拙僧は仏華についても、もう20年くらいは研鑽し続けている。今では他寺院から立華のご依頼や個人指導の依頼がくるようになった。

 もっと仏華が上手になりたいなと思って、華道教室に通っていたことがある。その教室では生徒の作品に点数をつける。師匠からは「まぁ! みなさん、乙部さんの作品見て下さい。またこんな生け方して。ここは華道教室、仏さんのお花じゃないんですよ」と指導されて、高得点をもらったことなど1回しかない。どんな花をいけても、その時は、実はそこそこデキはいい、と勝手に根拠なく思っている。

 

 陶芸教室に趣味で参加したことがある。その時も周りにくらべて自分は上手な方だ、と勝手に思っている。こちらは華道の師匠とは違い、「まぁお上手ですね!」と誉めてくれるので、ますます増上する。

 

 結果的に厳しい教室の方を続けられたのは、それが本当だからだろう。誉めてもらったことは一度もなかったが、師匠には感謝している。残念ながらこの方も浄還してしまったが、教えていただいた技は私の立華に生きている。仏華を立てる度に、驕慢のこころを諫め、さらなる高みへと背中を押されているように感じる。亡き師匠の指導あったればこそ、慢心しながらも時々驕のこころを抑えて作品を見つめ直すことができる。慢心しやすい私の性格を見抜いての厳しいご指導だったのだろう。

※筆者について以外の各エピソードは個人を特定できないように、内容を変更しています。



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