放逸

 信仰心がなく、善し悪しの判断も生活態度や行いもだらしないこと。自己中心的でだらしないことを平気でいられる煩悩。

 夫の生活態度すべてがだらしなく見えて腹が立って仕方ない、というご夫人がいた。

「わたしがコロナワクチンの二回目を打った時ね、えらい熱が出てしんどかったの。それなのに夫は『今何度?』と聞くだけで、何も手伝ってくれない。結局家事全部熱が出てるのに私がしてるの。夫に熱が出た時はあれやこれやと世話焼いたのに。ええい、腹が立つ」

「熱何度か聞いてくるだけまだええやないですか。心配はしているということじゃないですか」

「もうね、腹立つからそんな声かけて欲しくない。寝っ転がってゲームしながら『今何度?』。腹立つでしょ」

 そんなことを言いながらも、夫人は家族が暮らす家を守っている。

 

 配偶者の怒りを買うぐらいなら、わたくしならばそのような振る舞いはしようとも思わない。というかできそうもない。しかし、実は根っこはこのご主人と拙僧はあまり変わらない。わたくしも家事育児は妻に全部押し付けて、寝っ転がってゲームだけしていたい。そんなことをしたら実家にお帰りになってしまうので、単にうまくいくために自己を律しているに過ぎない。表面上まるくおさめるための損得勘定からの行動である、これも煩悩である。なぜならば、夏休みなどに妻が子どもを連れて遠方の実家に帰省することがあると、わたくしは表面上は「気をつけて行ってきてね」などと心配しているふりをしているが、実際は彼女たちがいない間に堕落した生活をして充電がしたいのである。

 拙の姉も同様である。実家である恩楽寺に帰ってきたならば姪たちのお相手はジジババに押し付けてこれでもかというぐらいソファで寝っ転がってスマホをいじっている。家事もお寺のことも何もしてくれない。そして帰るときは凜と衣服正して「んむ。充電した」と帰って行く。帰るところがあるというのは、いいことだ。

 先のご主人も、ご夫人のところへ帰っている。しかし装いのない本性を出せる居場所は大切だが、その居場所を普段から守っているご夫人にはとても迷惑なことなので、律することも大切だろう。

 

 堕落していても見捨てない心を慈悲という。

 如来の慈悲はどれほど私たちが【放逸】して堕落していても決して見捨てない大慈悲である。対して凡夫の慈悲は小慈悲といって限定的である。優しい気遣いも都合が悪いと敵意に変わる、ブレブレであやふやでどう転じるか分からないのが私たちなのだ。全くブレることのない如来大悲が自分に働いていることを一度でも知ったなら、お内仏(仏壇)に向かう度に自己の小慈悲が照らし出されて、都合の悪いことが徳に転じるのだ。ご主人の堕落した生活態度が、自分はどうなのかと問いかける智慧になる。

 人間はこういうものがないと、都合の悪い事象の原因を外においてばかりで自己を問うきっかけにならない。つまり基本的に人間は【放逸】なのだ。だから習慣的に尊前に座ることや繰り返し聞法することは大切なのだ。

 

 可能であれば家でだらだらさせていただき、そのだらだらをもっと優しさで包んでいただきたいのだが、怖くてできそうにない。だらだらできる居場所を守ってくれている人には感謝しなければならない。 

※筆者について以外の各エピソードは個人を特定できないように、内容を変更しています。