ものおしむ煩悩。物を惜しんで貪ること。

 この煩悩に偏ると、やがて自分だけの利益しか考えなくなり、しかもその独善的な考えを正しいと誤認して驕り高ぶり、他を害しても平気でいるようになる。自分の財産に強く執着して他人に施す心も無い状態、すなわちケチである。

 ケチな人は自分のことしか考えなくなるので、寂しい人生になるだろう。

 

 私の亡き祖父は、麻雀は弱いくせにとても好きだった。なんでも麻雀しながらする会話が好きだったそうだ。

 影響を受けたわけではないのだが、当家には麻雀道具は揃っているので、拙僧も多少嗜んでおり、祖父とは違って強い方だと勝手に自負しているw

 牌を引く(ツモる)と、その牌が自分がアガるためにどれくらい役に立つのか、またどれくらいの価値があるのか、その刹那の瞬間に、多角的に判断して捨てる牌を決める。牌を捨てる時も、相手の捨て牌(川)を見てどれくらい危険なのか、危険牌でも押すべきか引くべきか、これもまた一瞬の判断をする。他にも相手が自分の欲しい牌を捨ててくれるように、裏をかいて引っかけたりもする。自分が高得点でアガルために効率よく欲しい牌を集め、他のプレイヤーを抑え点数を奪うために騙し合い化かし合いをするのが麻雀である。

 このように、人間にはその時の自己の価値感に基づいて、瞬間的に対象の価値を計算して駆け引きする能力が備わっている。とてつもなく強力でしたたかな、人間らしい力だと思う。

 

 麻雀だけではなく、全ての現場が同様にその瞬間的な価値判断で動いている。能力主義の昨今は、この力がすぐれている人を仕事がデキルといい、おとっている人を仕事がデキナイと言う。

 すなわち、人は常に病的に盲目的に無自覚に損得勘定し続ける業を背負っているのである。そして他を比較するだけではなく、やがて自分のいのちも値踏みして、「デキナイとだめだ、役に立たないとダメだ」と惨めな思いをするようになっている。

 

 恩楽寺からは寺報「分陀利華」という季刊紙や、法要・定例法話の通知、その他行事などについてチラシやハガキが毎月発行されている。毎月、印刷費や発送料が発生しているので計画的に予算を組まないといけない。そうなると、「少しでも安くて質が良い方へ」と流れるのは病的に損得勘定し続けている人間として当たり前の業だろう。

 

 10年以上も前の話である。

 その時まで、恩楽寺の印刷物は長年当院門徒の印刷屋で行ってきた。一軒家を改造した古い印刷屋で高齢のお爺さん1人で仕事していた。

 現代はWeb印刷が流行っており、私ももちろん「少しでも安くて質が良い方へ」と常に考えているので、検索したり、既に利用している仲間から話を聞いたりした。調べたり問い合わせたいすると、Web印刷の方が間違いなくとても安くて紙質もいいことが分かった。しかし、長い付き合いであるお爺さん印刷所を見限るのはできるはずもなく、悶々としていた。

 ある時、拙僧がまだ寺報を作り出して間もない頃、こんなことがあった。

 お爺さん印刷屋へ原稿を持っていったその日の夕方、お爺さんから電話があった。

「若さん、誤字がありまっせ。同じ字体の文字を切り貼りして、おっちゃんの方で直しといたるわ。なあに、まかしとき。ウチのお寺の新聞やからな。それにしても若さんえらい勉強してはるなぁ、ちゃあんと何遍も目を通したで。こんなん印刷させてもらえて、有難いことや。おおきに」

 それ以降、お爺さん印刷屋以外で発行するまいと決めた。お爺さん印刷屋にプライスレスの価値を感じ、「病的に損得勘定する自分」を恥じたからだ。浮気してごめんなさい、と素直に思ったものだ。

 

 数年後、お爺さん印刷屋は閉店したので、私はやや惜しみながらWeb印刷に切り替えた。もちろん、印刷物の紙質は安く向上し、会計さんからは「もっと早くココにしといたらよかったですね」などと言われた。

 

 その新しくなった寺報はお爺さん元印刷屋にも届いた。

「ええ紙とええ印刷機やなぁ。高かったでっしゃろ? え? そんなに安いの? そりゃあ、みんなそっち行くわなぁ」

  新しい寺報をしみじみ眺めながらつぶやかれた。

「こんなん流行って、そりゃあ、ワイとこは廃業するわなぁ……」

 お爺さん曰く、

「──高度経済成長の中、企業の印刷物の下請けを一生懸命働いてきた。徹夜で輪転機を稼働させ、まだ子どもだった息子にも手伝ってもらったこともある。儲けて良かった時もあったが、平成中頃からは注文が減っていき、辞めどきの見きわめが甘かった。老後は小口の印刷をしながら、国民年金で細々と生きていこうと考えていた。しかし、設備費と小口印刷の採算が合わず廃業するしかなかった。

 今は地域小学校の見守り隊が生きがいで楽しい。他人の子どもなのに輝いてみえる。

 介護の仕事に就いた息子の背中が大きく見える。ハードな仕事を黙々と耐えている。深夜にもかかわらず、黙々と印刷機を回してくれたこと思い出す。もっと何か残してやれたら良かったのに、自分に経営センスがなかったため引き継げるような財産はお内仏しかない」

拙「念仏だけでも渡せるのであれば、ええやないですか。仏法は究極の宝ですよ」

 

 我々の病的な損得勘定に応えるために、企業はあの手この手で商品やサービスを生み出す。熾烈な価格競争では、大きな企業が大量生産で安く大量に普及して大量消費で儲けていける。小さな商店には厳しい戦いだ。拙僧地元のアーケード商店街は、子どもの頃は人と店でいっぱいだったが、いまはシャッター街になってしまった。

 

 

「経世済民(経済)とは、世をおさめて民を救うということ。お金を回して持ちつ持たれつで民衆の生活を守ることである」

※筆者について以外の各エピソードは個人を特定できないように、内容を変更しています。



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