名聞

みょうもん

名誉やよい評判を得るために、世間体をつくろい、偽善をなすこと。

過度に他人の評価を気にすること。

【名聞】に執われた人は、名声を得るために他者を害しても平気になる。

考えを悟られることを恥じる若者

 交通課勤務の警察官さんからのお話。

官「取り締まりの中で感じたことだが、最近では方向指示器を出さずに右左折や車線変更する人が増えたと感じている。特に若い人の中で」

私「なんでそんなことするんでしょう。事故の原因にもなるし、教習所でしっかり習ったはず」

官「周囲の車に考えを悟られることが恥ずかしいと言う人が多いです、中には方向指示器を出すことで特に後続車に迷惑をかけたくないと思った、という人もいました」

私「前者はなんとなく分かりますが、指示器を出すことがなんで迷惑になるんです???」

官「私が知りたいからこうしてお寺さんに話してる」

 いまだに方向指示器を出すことが後続車の迷惑になる心理はよく分からないのだが、たとえば、指示器を出したら後続車に「あ、そこで曲がるのか」などと反応させることが申し訳ない気持ちになる、とかだろうか。考えすぎとしか言い様がない。

 拙僧もたま~に指示器を出さずに右左折・車線変更するならずものドライバーは見かけるが、迷惑で危険な運転だからやめてほしい。憤慨の対象である。

 前者の「周囲の車に考えを悟られることが恥ずかしい」と考える心理も、他者の迷惑を必要以上に気にする心理も、【名聞】に執われた姿で、過度に他者の視線や評価を気にしすぎている。良いカッコしたい、良い評価でいたい、変なヤツだと思われたくないなどの思いにとらわれすぎて、結果や周りが逆に見えなくなってしまうのが【名聞】である。

 ルールを守らないことの方が恥ずかしく迷惑であることをちゃんと理解して、交通規則はちゃんと守りましょう。

間違えたくない学生

 本山の研修道場(僧侶の教師資格を目指す者が修行する機関)で指導するある友人からのお話。

友「失敗や間違いを過度の恐れる学生や若者が増えた」

私「それは良いことなのでは?」

友「いいや、人生なんて失敗と間違いの連続だ。間違ってこそ勉強になるし、失敗してなんぼである。そのような経験と感覚を身につけないまま坊主になってしまっては、挫折に弱すぎてうつ病になったり僧侶を辞めたり、カンタンに潰れてしまう。失敗と試行錯誤の積み重ねが大事な大事な人生の勉強なんだ」

私「ははぁ、先生やるのも大変だね。ではわざと失敗させる指導をしてみては?」

友「そんな一昔前みたいにしたら、僧侶になろうとする若者が集まらない」

と聞いた。

 教育者である友人は、こう続けた。

「人は間違い、失敗して成長する。その人にふさわしいやり方はその人自身にしかわからない。若者、学生には試行錯誤しながら自分の可能性を試してもらいたい」

メンツのぶつかり合いは醜い

 わたくしが法話講師(布教使)を志していた若い時、やはり【名聞】にとらわれていた。法話の勉強会に所属して、そこで仏教を分かったふりをして、知ったかぶりをして、かっこつけていた。今でも思い出すと顔を枕に埋めたいくらい恥ずかしく思う。ついたウソをマコトにするために必死に本を読んだり法話の勉強をしたものだ。そういう意味で、【名聞】は人を成長させる部分もあると思う。しかし、学び得た仏教の教えは、過去からの恵みであり、自分のものにしてしまってはいけない。

 やがてモトモト人前で発表したりプレゼンしたりすることは得意だったということもあって、徐々に法話講師として知られるようになっていった。

 話が変わるようだが、何事に於いても、後輩に追い抜かれるというのは先輩としてはメンツがない。これも【名聞】である。

 出る杭である私が徐々に法話講師として名が知られていくことが気に食わない勉強会の先輩がいて、方々で私の悪口を言うようになり、ついには私の法話中にわざと携帯電話を鳴らしたり、忘年会などの会食の時にあからさまに攻撃してくるようになった。

 これもまた、【名聞】であろう。私が背伸びしてかっこつけていたから、その先輩は私が気に入らなくなったのだろう。

 今ではお互い顔を合わせても挨拶程度ですませ、事務的な会話しかしない。ヘンな溝ができてしまって、お互いに向こう岸へ渡る気はない。メンツのぶつかり合いというのは、救いがない。

※筆者について以外の各エピソードは個人を特定できないように、内容を変更しています。