帰敬式とは古来より「おかみそり」とも言われ、お釈迦さまの弟子として仏、法、僧の三宝に帰依することを誓う儀式です。
受式されますと、仏弟子名である「法名」が授与されます。
法名とは「亡くなってからいただくもの」ではありません。生きている「今」受式することに、仏教の本来的意味があります。
人生の新たなスタートとして、何歳の方でも受式いただけますので、是非ご家族お揃いで帰敬式をお受けください。
①法名入り門徒輪袈裟授与(恩楽寺限定記念色)
②どんな法名にするか住職と相談できる。
③院号法名も可
④その後の生きる姿勢が変わる。
などなど……
阿弥陀如来という仏さまは、私たちのことが大好きなのです。必ず浄土に迎えとり、だれ一人絶対見捨てないと本願を誓っておられます。だから私たちの称える南無阿弥陀仏を、何者も妨さまたげることはできません。私たちは迷いのない一筋の大道を歩んでいるのです。
それはなぜか。とても簡単なことであります。
「念仏」とは「仏が念う(おもう)」と読みます。
自分が仏を念じる、ではありません。
仏の方が念い続けているのです。 ※【念仏】とは
阿弥陀如来に願われて私たちは成仏します。
たとえ本願が信じられなくても大丈夫です。
阿弥陀さまの方が、先に往生した祖先聖衆の方が、私たちの往生成仏を信じています。仏が念う、これを「他力」と申します。
よって私たちが「南無阿弥陀仏」と念仏を称えるこころは如来より賜わった信心であります。そうやって念仏申す私たちには、阿弥陀如来の功徳がすべて成就しているのです。
だからあらゆる神々が、念仏申す人を敬まい、悪魔も、外道も、何もかも、南無阿弥陀仏を妨げることはできません。それらは今ついに私たちが念仏するための如来の化身であります。
老い、病苦、死、という我が身の事実や、ありとあらゆる悲しい出来事や現象が、私たちが念仏に遇うための方便であります。
苦悩、困難、絶望と、この身に集まるご縁すべてが、本願念仏に私たちが成就するための機縁なのであります。
怠惰堕落し、強欲貪り、他を害し傷つけ、慢心しておごり高ぶり無反省。いかに仏の願いに背いた生き方をしていても、本願念仏の妨げになりません。なぜなら阿弥陀如来が私たちの浄土往生を信じているからなのです。
いかなるカルト教団も、阿弥陀如来の前には意味がありません。なぜなら阿弥陀如来が絶対の真理だからであります。真理(如)の方から来てくださるのです。たとえ大罪を犯したとしても、阿弥陀さまが私たちを見捨てることはないのであります。
何があっても大丈夫、安心の大地に樹っていることを覚えておきましょう。だから念仏が一番大事であることを守る人になりましょう。
少しも曇らず壊れないダイヤモンドのような願いが、まっすぐ無限に私たちを支えています。このことを大変喜んで、みなで「南無阿弥陀仏」を称え阿弥陀さまに感謝しましょうと支え合って、多くの人が安心を得て往生成仏してゆかれました。そうして祖先聖衆の仏さま方に列されて、今も生きている私たちを浄土から呼びかけて続けておられます。
よって私たちは苦悩しても良いのです。たとえ道を間違えても問題ありません。何があっても大丈夫、仏さまが私たちを見捨てません。このことを、親鸞聖人が教えてくださっています。
「心配するな、大丈夫だ。その罪、その苦悩、その悲しみ全て如来の方で解決する。安楽の中で業を尽くせ。必ず救う。我が名を称え安楽せよ」