7.26 田辺の模擬原爆 追悼式

開催日時 : 毎年7月26日

場  所 : 真宗大谷派 恩楽寺

       大阪市東住吉区田辺1-14-18

主  催  者 : 7.26田辺模擬原爆追悼実行委員会

模擬原爆は長く歴史に埋もれた存在でした。原爆投下を成功させるため長崎に投下された原爆と同型、同重量の約5トンという巨大爆弾を大量の製造し日本への空襲の中で原爆投下の訓練をしたのです。こうした隠れた事実を広く知らしめ、広島・長崎の原爆投下を身近に感じて、この悲劇が繰りかえされないことを念じて、田辺に模擬原爆が投下された日時に合わせて追悼式を行っています。



模擬原子爆弾を知っていますか?

画像は、戦時中、原子爆弾投下訓練のために、実際に使われていた「パンプキン」という通称の、5t爆弾。

1945年7月26日

東住吉区に投下された模擬原爆(原爆投下の練習用の大型五トン爆弾)によって、死者7名が犠牲になり、重軽傷者73名、485戸の家屋が倒壊した。


爆風の記憶

爆心地から200mほど離れていた恩楽寺その爆風で今も歪んだまま、戦争の記憶を残している。


模擬原爆はパンプキンと呼ばれ、全国各地に原爆投下のための練習で落とされている。全国で計算すれば、相当な規模で5t爆弾が落とされ、多くの被害者があった。これは米軍資料を日本語訳したもの。


20年ほど前の中日新聞の記事。原爆を落とすために、エノラゲイの繰り返し練習で多くの犠牲があり、戦争であれば練習で人を殺せるということである。ポール・ティベッツ将軍は模擬原爆による練習は非常に有効だった、よい練習になった、と後年語っている。


戦争の愚かさを伝えるために

東住吉区各学校の歴史学習取り組み

 恩楽寺は当時の爆風で歪みを生じたままで、模擬原爆の凄まじさを物語っている。恩楽寺では毎年、模擬原爆を伝える学校や市民団体などの学習会に積極的に協力している。

 田辺模擬原爆追悼式実行委員会の吉村直樹さんが模擬原爆について語り、戦争の悲惨さを映像などを使って子どもたちに訴える。


模擬原爆体験者 龍野さん

 その当時を知る同区の龍野繁子さんに当時の様子を聞いた。

 龍野さんは1945年当時は中学校教諭として、生徒を田辺周辺の海軍ボタン製造工場へ勤労動員の生徒を引率。しかし、材料がなく仕事ができないため、別の部屋へ移動し授業をしようとした際に、工場に大きな石が飛んできた。

 「もし移動してなかったら・・・」移動前にいた場所に、両手でも抱えきれないほどの石が屋根などを突き破り落ちてきていた。後にそれは、現在の地下鉄田辺駅前に落とされた模擬原爆によって、爆心地そばの料亭にあった石が飛んできたものと分かったという。

 他にも、田辺小学校の講堂には遺体とけが人がずらっとならび、塵と血がこびりついていたそうだ。手足が爆風でもげた人々、電線にぶら下がった人体の肉片の話。爆風で150m吹き飛ばされ、全身ガラスの破片だらけになって絶命した大切な友達。祈るような気持ちでその友達の遺体からピンセットと箸でガラスを除去したこと。

 一発の爆弾で一瞬にしていのちが失われてしまう戦争の愚かさを、子どもたちに語る。

 毎年、全身を耳にして龍野さんの話す戦争体験に聞き入り、質問を重ねて学ぼうとする小学生たちの真剣な眼差しに、心の底から希望を感じる。「戦前戦中の私たちは愚かなことに、日本は正しいって信じ込んでいました。あなたたちは、何が本当に正しいのか、自分で考えて行動のできる大人になってね」。

 人間一人の死がこんなにも悲しいのに、戦争では多くの命が一瞬で人間の手によって奪われてしまう。戦争の不条理を先人たちがちゃんと伝えているのに、日本はまた戦争のできる国になろうとしている。不条理すぎて、拙僧の無力が恨めしい。


パンプキン! 模擬原爆の夏 / 令丈ヒロ子先生

わたしたちの町が、原爆投下の練習台に!?

身近にあっても見すごしていた戦争の大きな傷あとを夏休みの自由研究で調べてみると……。

1945年、終戦の年。

原爆投下の練習のため、模擬原爆・通称パンプキン爆弾が日本各地に49発も落とされていた事実を知っていますか?

本当にあったことを、小説で読む・知る。

 

令丈ヒロ子

帝塚山学院中学校・高等学校卒業。1984年、嵯峨美術短期大学ビジュアルデザイン科絵本制作コース卒業後、福武書店(現・ベネッセコーポレーション)勤務ののち、1990年に「令丈ヒロ子」のペンネームで『ぼよよんのみ』でデビュー。代表作『若おかみは小学生!』シリーズは累計300万部のベストセラーとなり、漫画化・アニメ化もされた。また、『料理少年Kタロー』は2度テレビドラマ化された。嵯峨美術大学客員教授、滋賀県の成安造形大学客員教授を務めている。


「模擬原子爆弾投下跡地」の石碑を迎えて

私たちは過去において、大日本帝国の名の下に、世界の人々、とりわけアジア諸国の人たちに、言語に絶する惨禍をもたらし、将来ある青年たちを死地に赴かしめ、言いしれぬ苦難の過ちを犯したことを、深く懺悔するものであります。

 

同時に、我が国には、広島、長崎に、アメリカによる二つの原子爆弾が投下され、まことに多くのいのちが無差別に奪われ、筆舌し難い業苦を被りました。

 

この二つの原子爆弾に先立ち、模擬原子爆弾という、原爆投下練習用の殺戮兵器が我が国各地に四十九発も使用され、その内の一つが、昭和二十年七月二十六日、ここ東住吉区田辺にも投下されていました。死者七名が犠牲になり、重軽傷者七十三名、四八五戸の家屋が倒壊しました。

 

この事実は長く歴史に埋もれており、先人がこれを発見し、こうした隠れた痛ましい事実を広く知らしめ、広島・長崎の原爆投下を身近に感じて、この悲劇が繰りかえされないことを念じて、「模擬原子爆弾投下跡地」の石碑を建立し、毎年追悼式を行って参りました。そのように、不戦平和への願いに促されて、その現実に身を捧げておられるあらゆる心ある人々に、深甚の敬意を表するものであります。

 

しかしながら、戦後七十数年、戦争の悲惨さと愚かさに対する人々の感覚は風化していきます。

その風化は、現在も、基地問題で苦しむ沖縄の人たちの心に向き合おうとせず、戦争に向かう状況を生み出そうとしています。

 

かつて二五〇〇年前、釈迦牟尼仏・仏陀は、私たち人間の生きざまを憐れんで、仏教を開闢されました。

 

永い人類の歴史は、人が人を殺し、傷つけ合う悲しみの連続でありました。仏陀の願心は、自我愛を正当化して「賜った尊いいのち」を奪い合うことを悲しみ、私たちに「共に生きよ」と呼びかけておられます。

 

「殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ」という仏陀の悲願を受け取り、あらためてここに「非戦の誓い」を表明します。当恩楽寺は、この懺悔の思念を旨として、人間のいのちを軽んじ、他を抹殺して愧じることのない、すべての戦闘行為を否定し、さらに仏より賜った信心の智慧をもって、人類が犯した罪責を検証し、これらの惨事を未然に防止する努力を惜しまないことを決意して、ここに「模擬原子爆弾投下跡地」の石碑を迎え、不戦の誓いを改めて表明するものであります。

 

今日ここに集う私たちは、民族・言語・文化・宗教の相違を越えて、戦争を許さない、豊かで平和な国際社会の建設にむけて、すべての人々と歩みをともにすることを誓うものであります。

 

令和元年六月二日 釋大信


7.26 田辺の模擬原爆 追悼式

開催日時 : 毎年7月26日

場  所 : 真宗大谷派 恩楽寺

       大阪市東住吉区田辺1-14-18

主  催  者 : 7.26田辺模擬原爆追悼実行委員会

模擬原爆は長く歴史に埋もれた存在でした。原爆投下を成功させるため長崎に投下された原爆と同型、同重量の約5トンという巨大爆弾を大量の製造し日本への空襲の中で原爆投下の訓練をしたのです。こうした隠れた事実を広く知らしめ、広島・長崎の原爆投下を身近に感じて、この悲劇が繰りかえされないことを念じて、田辺に模擬原爆が投下された日時に合わせて追悼式を行っています。