「宗教は、煩悩の象徴であるお金の弊害を是正し、人々が本来の人間性を回復し、理想の社会をつくるために生まれ育まれてきた。よって人類は宗教なしに完結できないのである」釋大信

「自分さえよければ」と貨幣が観念を肥大

 18世紀、欧米で産業革命により資本主義が急速に拡大成長した結果、貧富の格差は拡大し、家族や地域の絆が失われ、道徳や倫理が崩壊するなど、人間らしい考え方や暮らしが失われ続けている。その原因は、人間が、人類の生んだ最大の妄想である「お金」に執着し、そのことが正しいと幻想しているからである。

 人間をお金に取り憑かせ、盲目にしていく仕組みを、株式会社という。

 1776年アダム・スミスの『国富論』では「株式会社が増えることは国家社会にとって好ましくない」と厳しく批判されている。当時イギリスでは、株式会社は不祥事件ばかり起こすため、スミスの提唱により設立には国会もしくは王室の許可を要するという厳しい制約が課されていた。なぜならば株式会社は利益と配当を目的とした企業だからである。業績が右肩上がりでないと存在価値と意義を失うので、利益のために不正や不倫理を犯しやすいのである。カンパニーのパトロンとなるであろう貴族王族に、その責任を取る姿勢を求めたものなのである。利益主義に偏り、売ってはいけないモノを売るようになり、立場の弱い従業員を虐待するといった不祥事は、現代でも横行している。法律やシステムで厳しく束縛監視しているが、不祥事は後を絶たず、その根っこにあるのは全てお金である。

 

 そもそも、お金とは何なのか。我々はお金の本質をよく分からないままとりあえずお金に依存し、もはやお金なしに生きることができなくなってしまった。

 たとえば古代メソポタミアのお金は小麦であった。その後、銀や銅が使われ、紙幣が発明され、最近では電子マネーも登場している。

 経済学の教科書を読むと「貨幣機能説」といって

「貨幣とは①交換機能、②価値保蔵機能、③価値尺度機能を果たすもの」

 と定義してる。

 これらの機能は大変便利であるが、人間が人間自身をコントロールして貨幣と向き合わなければ、暴走し苦悩を増大させるのである。人類は貨幣が登場することによって飛躍的に文明を発達させると同時に、「自分さえよければ」という観念を肥大させてきた。

 

 ①交換により想定した対価報酬を得なければ苦悩する(瞋恚)

 我々は費やした金・時間・労力・思いに対して、思い通りの対価・報酬・評価を得ないと、怒ったり悲しんだり苦悩する。交換とは人間が決めたルールなので、それ自体は本来幻想である。そこに執着し、交換することは正しい・交換しないと与えない・そうでないと不公平だ、というようなケチな精神を生まれてからずっとそばにある貨幣によって育まれてきたのである。

 

②貨幣に置き換え独占し、自分のものであると勘違いする(貪欲)

 自己の商売・労働の対価として、数字に換算されて自身の財布に貨幣が入ってくるため、これは自分のものだと勘違いする。仏教では、全ては「縁起」であり、一切が自分のものにあらず、執着するべきではないと教えてきた。自身が労働できたこと、自己の肉体が機能したこと、お金になって入ってきたこと、全てが縁であり、たまたまそのような結果になっただけである。貨幣による独占所有欲に毒され真実を見失った人間は、幼稚で貪欲で、失っていくことを激しく苦悩するのである。最初から一切が自分のものではなかったのである。

 

③自分以外の存在は数値で管理できる人間の道具に過ぎない(無明)

 貨幣は、対象の価値を尺度する便利な機能を持っているが、同時にあらゆるものに対して自分の都合で価値を斟酌する精神を増大させ、その行為は正しいと勘違いさせる。物質・現象・生命あらゆるものに対して、優劣を尺度し、損得を計算し、価値をはかる。全ては自分にとって都合が良いか悪いかではかり、自分のいのちですらはかる。

 

 

 人間の都合というモノサシで、思いを思い通りにするために、自他を優劣区別差別し、価値にこだわり続ける生き方は、まことに浅ましく、有頂天にいてもやがて衰えるので苦悩である。釈尊は、そのような諸行無常の迷い人生から解脱するため仏教を開闢した。その真実を「無量寿」といい、「はかりしれないとうときいのち」といい、南無阿弥陀仏というのであある。

個人主義、合理主義、自由主義という邪教

 貨幣が紀元前4千年前にメソポタミアに生まれて以来、市場と産業が発達し、生産力は飛躍的に拡大し、人口が爆発的に増え、自利優先集団が増え、人々の対立や悩みが拡大し、犯罪や戦争が増加した。そして、実存主義者ヤスパースが「枢軸の時代」と名付けた紀元前五〇〇年頃は、ゴータマ・ブッダ(釈迦)、ソクラテス、孔子などの偉人が輩出した時代だ。貨幣が猛威を振るい、貨幣によって貧富の格差が激化し、差別・貧困などの苦悩が頂点に達した結果、偉人たちが人類を救済するべく宗教や哲学をもって、その悩みと真剣に向き合った「末法の世」である。釈迦は、「無我」と言って自我というものは妄想に過ぎないと説き、ソクラテスは、お金と自由に狂ったアテネの市民たちの思い上がりを批判し、孔子は、仁と礼により自意識を抑え、徳による理想政治を説いた。彼らにとっての最大の課題は、お金の弊害の克服だったのである。

 人類がこれまで築いてきた宗教や哲学、政治や法律、文化は、こうしたお金の弊害をコントロールして、社会のバランスを保とうという人類の営みでもある。たとえば文学でも、ディケンズの『クリスマス・カロル』、ドストエフスキーの『罪と罰』、夏目漱石の『吾輩は猫である』など、お金の弊害に対する警鐘を鳴らすものは星の数ほどある。まさに「人類の歴史とは、お金との戦いの歴史」なのである。

 お金の弊害が、さらに急激に進んだのが、冒頭の18世紀のヨーロッパである。ハンガリーの経済人類学者カール・ポランニーは『大転換』という本の中で「産業革命により、これまで地域社会に埋め込まれてきた経済が世界的に暴走と対立を始めた」と述べている。お金によって品物をやりとりする「市場」という「観念」が猛威を振るい、あらゆるものが「商品」として流通し始めたのだ。この結果、人々の自意識、エゴイズムは猛烈に拡大する。他人を「商品」と考えて虐待することも始まった。貧富の格差に目をつぶり、「自分さえよければ、今さえよければ」という思想が生まれ、目に見えない神仏よりも、目に見える貨幣や物質を信じる「拝金主義」や「物神主義」が生まれたのだ。これらを総称して「個人主義、合理主義、自由主義」などという。

 日本では明治維新以降、西洋の「個人主義、合理主義、自由主義」が浸透し、それは良いことであるかのように考えられている。しかしこれは幼稚で単純な思想である。ヨーロッパの正統な哲学においては「危険思想」とされてる。なぜかというと、ニーチェのいう「虚無主義」、ウェーバーのいう「官僚主義」、デュルケムのいう「アノミー」、オルテガのいう「大衆主義」を生んだ元凶だからである。現代日本においても、いじめや孤独、道徳や倫理の崩壊、家族や企業の破たん、うつ病や劇場型犯罪という形で猛威を振るっている。これらはみなお金の弊害が生んだ病理現象なのである。

偏ったいびつな人間

 子や孫に伝えるべき、託すべき本当に尊いこととは、何であるのか。決してお金こそが伝えるべき大切なことではない事を、我々の精神がすでに知っている。

 現代ではとても悲しいことに「自分は無宗教である」と考える人が大多数を占めている。信仰や宗教というと「あやしいもの」と考えて、「信仰を持たない自分たちはまっとうだ」と考えている人が多い。しかし、こうした者たちは、実は、自分たちが「個人主義、合理主義、自由主義」という邪教にマインドコンロトロールされ、それにも気付いていない「偏ったいびつな人間」であることに気づいていない。釈迦はそれを「無明」といい、苦悩する原因であるというのである。その証拠に、彼らは損得に病的にこだわり、ゆえに精神的に病んでいる。お金のことをいつも心配して、不安な状態で、信念が自己中心的で、保身的で、幼児的で、殻で囲おうとしてできず刹那的だ。人間として、決してまっとうな生き方、考え方ではないのに、それに埋没し気付いていない。そして、そうした者たちが中心となった我々の生きるグローバル現代社会は、まさに「異常な社会」なのである。

 たとえば、2011年3月11日の福島第1原発事故は、風向きが逆であれば、我が国全体を壊滅させるほどの恐ろしい事故だった。それにもかかわらず、電力会社や経産省、政治家、財界、マスコミ、そしてそれを操る、ウォール街などを拠点とする欧米の富豪たち、いわゆる「原子力ムラ」は、自分たちの利権利益に目がくらみ、「原発は安全でコストが安い、無限に使える」などという「全くのウソ」を恥ずかしげもなく繰り返し、原発の再稼働を画策している。彼らを突き動かすものは、お金という幻想である。

 こうした病理現象を引き起こしているのは、ひとえにお金の弊害である。そして、人間の病を克服し、「共に生きる喜びあふれた和合した世界を創る」という使命を果たすのが、宗教などの存在である。

 現代人と現代企業、現代国家が、損益だけに振り回されず、理念や信念、理想を取り戻すために、私は、今こそ仏教やキリスト教など、時代を超えた伝統的な宗教の力が必要だと確信している。現代社会こそ、こうした宗教が求められる「末法の世」ではないか。

六字のみ名を称えつつ 浄土の旅をともにせん

 このような、拝金主義などという邪教に犯されきった現代人類社会を、人間の力で是正することは甚だ困難である。おそらく不可能であろう。私自身、どんなに修行してもこの邪教俗世から解脱することはとうてい無理である。

 しかし、そのような欲望に溺れた一切人類を決して見捨てない、必ず救済すると誓っている仏を、阿弥陀如来という。親鸞聖人の教えは、この大いなる願い(本願)に身を任せ、確かな智慧と慈悲の中で生き抜く尊い導きなのである。

 我々の南無阿弥陀仏は、何者も妨(さまた)げることはできず、無明の闇を打ち払う大乗至極の法なのである。そのわけは、我々一切衆生は阿弥陀如来に願われて、全員全部成仏するからである。そこに信がなくても問題にならない。なぜなら阿弥陀仏が我々の往生成仏を信じているからなのである。それを「他力」といい、南無阿弥陀仏という。我々の南無阿弥陀仏の念仏は、如来から願われ支えられている証なのである。

 そのように念仏申す中にある我々には、阿弥陀如来のすべて功徳(くどく)が成就(じようじゆ)している。だからあらゆる神々が南無阿弥陀仏の前に敬(うやま)いひれ伏(ふ)して、魔道、外道、邪教などは問題にならない。老い、病苦、死という我が身のあらゆる現象が、すべて念仏するための方便(ほうべん)である。苦悩、困難、絶望と、その身に集まるご縁(えん)すべてが、我々がついに念仏成仏するための機縁(きえん)である。麻薬、賭博(とばく)、犯罪などと、我々の精神を怠惰(たいだ)・堕落(だらく)に貶(おとし)める現象が、我が身に現前(げんぜん)しても我々の南無阿弥陀仏の妨げにならない。たとえ我々が拝金主義という邪教に溺れても、阿弥陀仏が一切衆生を見捨てることは絶対にないのである。

 阿弥陀如来が我らの浄土往生を信じ、決して見捨てない。この無上の智慧、至極の慈悲である如来の誓いに支えられ、浅ましく煩悩邪教にまみれた私が願われ往生していく。何があっても大丈夫、安心の大地に樹(た)っていることを覚えておきなさい、と親鸞聖人の力強い信を、南無阿弥陀仏といって護り伝えてきた。

 親鸞聖人を開祖とする我々浄土真宗は「みな倶に阿弥陀如来の本願を信じ、念仏して浄土に往生して成仏する」ことを信仰する同朋念仏者の伝統教団である。八〇〇年間、本願念仏の教えを、ともに喜び、ともに支え合って、無明の闇である苦難の人生を生き抜くかがり火として、我々の祖先が途切れることなく護ってきたのである。あらゆる隔たりを越えてともに生きてお浄土へ参ろうと、護持されてきたこの尊い願いの前には、一切の差別区別はなく、「無量」であり、それを南無阿弥陀仏という。

 そのバトンとしての象徴が、近年では足かせのように捉えられているお内仏(仏壇)である。大切にしていただきたい。「個人主義、合理主義、自由主義」の全く正反対にある本願の教えそのものであるため、拝金主義者には非効率・非合理の厄介で邪魔なものにしか見えないだろう。しかし長男筋が押し付けられたようにお内仏を引き継ぐのではなく、昔のように一族に株分けしてみなに本尊のある生活を取り戻していただきたい。毎朝ご家族でお内仏の前に座り、本当に大切なモノ、自分が本当に欲しいモノを再確認する人間として大切な瞬間を取り戻していただきたい。

 そして尊い導きを残してくれた祖先に感謝しなければならない。先に煩悩執着から解脱し成仏した大切な亡き人々のメッセージを受け取る、それを供養という。南無阿弥陀仏というかがり火を今現に伝えようと、浄土からずっと手を伸ばしているのである。その願いを受け継ぎ、教えに遇うために、ぜひともお寺の法要・法話会にご参詣していただきたい。ともにお念仏を称えましょう。全ては南無阿弥陀仏に成就する。(釋大信)

参考文献 「信用金庫の力」吉原毅

 「拝金社会主義中国」遠藤 誉

 「今なぜ親鸞か」亀井鑛