能力が高い者だけを採用(重用)し劣っている者をリストラする企業の風潮が広がり、結果的には失業者が増加して、生活保護受給者が増加、続いて結婚率が低下し、出生率が低下し消費が低迷して大きな社会負担になった。(マイケル・ヤング著「Rise of the Meritocracy」より)

マイケル・ヤングのメリトクラシーについて

 メリトクラシーはヤングの造語で、成果主義、能力主義とか訳される。組織、あるいは国が是に偏ると格差と軋轢が激化し運営が破綻するとある。

 ヤング当時のイギリスでは能力主義が蔓延し、社会問題になっていた。

 

 能力が高い者だけを採用(重用)し劣っている者をリストラする企業の風潮が広がり、結果的には失業者が増加して、生活保護受給者が増加、続いて結婚率が低下し、出生率が低下し消費が低迷して大きな社会負担になった。(マイケル・ヤング著「Rise of the Meritocracy」より)

 

 法律や雇用制度でこれを補い、バランスとらなければならないので政治は大変だ。

 

 組織単位でメリトクラシーに傾倒し始めると、能力や成果が人材評価の主軸になるので、それまで埋没していた若手や事業案などが注目されるようになり、一時的に業績は回復するが、組織内に能力格差による階層意識と人間関係摩擦が増加し、次に運営困難な時期を迎える。(本田由紀著「ハイパー・メリトクラシー化のなかで」を参照しています)

 

 人間は合理的な生き物ではない。成果主義的正論に無条件に反発する認知バイアス(心理作用)がある。

 これは、例えば、教育に対して反抗する思春期のような精神作用だ。人格の成長に必要不可欠な作用であるが、これを効率や合理性上の論理で抑制しすぎると過保護・過干渉になり、無気力あるいは攻撃的など偏った考え方に育ってしまったり、酷い場合はパーソナリティ障害など後天的な精神障害に発展する恐れもある。

 同様に、成果主義の主張は結果に現れるその合理的正しさゆえ、効率的ではないものや合理性に欠けるモノや人材を「間違い、悪し」と断じてしまう、実はとても攻撃的な側面をもっている、所詮は人間の知恵なのだ。反発があって当然なのだ。

 組織に所属している場合、

「あなたが評価されないのはあなたの努力が足らないからだ、自己責任です」

と言われたらぐうの音も出ないのが僕含めて非才な者の実情である。

 だから反発されて当たり前である。成果主義・能力主義の見地からすると全く正論なのだろうが、こんな高圧的なことを言えてしまう人は自信過剰で、実は根拠の裏付けが優生主義であることに無自覚なのだ。その反発心は必ずしも組織側にとって良い方向にはならない。冷静に自己分析して納得し、従順に組織内の倫理や規範に従って努力し始める人はまれだ。ふてくされたり、やる気や自信を喪失してさらに能力を低下したり、反抗的になったりうつになったりする。

 もし自分の所属する組織が、年功序列をやめて、業績や成果で評価するなら、人材を数値的評価してもその後のフォローも忘れてはいけないと思う。

うつと自己評価のバイアスについて

  もともと、能力的によくできる人ほど自己評価は低く、アビリティが低い人ほど自己評価は高いという認知バイアスがある(ダニング・クルーガーの法則)

 

 これは本当で、クルーガーのバイアスが強い人ほど、影で批判されているのをよく見かけた。

 僕はこれを「根拠のない自信」と言ってきた。低評価されて悩んで苦しんでいる人から相談を受けると、掘り下げると見えてくるのが、悩みの原因が「この説明できない自信の喪失」であることが多い。

 娑婆に出て、「実はあなたは低能力ですよ、努力してください」と指導されてまず驚き、努力では間に合わないどうしようもない現実に絶望して、とても苦悩される。そこから立ち上がり前向きに努力し始める人と、諦めたり逃避したりする人、色々見てきたが、立ち上がる人は独りで努力するようになっていない。信仰があるか、あるいは必ず誰かが色んなカタチで支援している。そばにいるなりグチをきいてあげるなり、指導を諦めないなど色々だ。指導対象の自信を砕くことは、「うつ」の入り口なのだと実感している。その人材が自信喪失の故さらにできなくなってしまう。

 だから「浄土宗の人は愚者になりて往生す」の教えは僕にはとても重い。

 

 「総別、人にはおとるまじき、と思う心あり。此の心にて、世間には、物もしならうなり。仏法には、無我にて候ううえは、人にまけて信をとるべきなり」蓮如上人

 

 僕が落ちるとこまで落ちた時、本願念仏の教えは最後のよりどころだった。苦悩の先に仏法が待っている縁がある人はいいが、娑婆ではなかなかそうはいかないかな。

根拠のない自信をどう対応するか

 話を戻します、根拠のない自信で無自覚に自己を高評価している状態の人について、その様子は賢い人から見ると滑稽に見えるが、そうやって自尊心のバランスを保つ必要があるのだ。生理現象的なものなのだ。それを指摘し暴露してその人材を使い物にならなくしてもメリットはあまりないはずだ。

 他にも自分が悪くても責任転嫁して深い反省効果が得られないバイアスもある。指導者が折角厳しい指摘をしても効果がでないので、ここで負の連鎖が始まる。だから、先の「あなたが評価されないのはあなたの努力が足らないからだ、自己責任です」というその成果的主張を正論と感じるがゆえに、敗北感、劣等感など負の感情が強まり、大きなストレスになってしまう。ストレスを回避あるいは解消するために、現実逃避をしたり、あるいは低評価された者同士が互いに慰めあい、執行側を隠れて批判するようになり、組織側にとって都合の悪い徒党をひそかに組んだりする。

 

 低評価された者たちは自尊心をまもるため、学校や組織やシステムを根拠なく非難したり、組織や執行側に対して懐疑的になり、学習意欲、労働意欲、奉仕精神、忠誠心を失い、あるいは反抗的になるなど、さらに指導役の負担になる負のスパイラルがある。(岡本茂樹「反省させると犯罪者になります」を参照しています)

 

 社会信用度システムのようなもののせいで、もともと、そこそこ自信と責任感をもって自発的に仕事していた人が、自発性をなくしてしまうのは勿体ない。人間は低い方へ逃げやすい。努力するよりもグチを言い合って慰めあう方が楽だ。

 

 運営側は所属する組織の中の正論(規範)をもって指導しているので、そういったバイアスにいる者を簡単に論破できるが、対人構造である以上、論破しても、人間関係や階層意識の溝は回復しにくい。蓄積した不満と自己愛性が作用して組織にとって都合の良い方向へ転じにくい。反論しないが内心で失敗や怠慢を責任転嫁してしまう傾向がある。

 だから指導者は、論破、説教、指導して反省を期待しても効果がない、と呆れて対象を相手にしなくなり、自分でやったほうが早いので、接点がなくなっていく。その先に見えているのは層の乖離だ。

 ここで、肝心なことが、スキルの高い人たちのマイノリティの自覚だ。

 人間は水と同じで低い方へ逃げやすい。上昇してもらうには加熱が必要だ。そして勝手に上昇する人材と動機はまれでマイノリティだ。

システムは氷、人情は熱

 努力すれば報われるという評価システムやルールは組織側の都合を押し付けているカタチになるので加熱といより氷だ。評価システムだけ提案されても、努力に慣れたスキルの高い者は放っておいてもそれを糧に努力するだろう。そうでない者にはコミュニケーションを通して「ぜひがんばってほしい、期待しています」と情の部分が必要でなかろうか。たとえ低評価されたとしても、そこへ、そのシステムに沿って頑張ってみようと思う熱源が必要だ。野心、見栄、情熱の共感、期待に応えたいという意欲ややる気を喚起する「感情的な要因」が何かあればいい。

 

 仏教的に言えば、智慧と慈悲か。偏固堕落を照らし出して問う智慧と、信じて待つ見捨てない慈悲。経済学用語でウォームハート・クールヘッド。厳しく指摘し問い最善の道を探し続ける冷静な視点と、仲間を見捨てず許容し拾い上げていくボトムアップ的対応、このバランスは大事だと思う。

 

 ウォームハートはシステムやルールに現れにくいし、規範に盛り込まれていても届きにくい。しかし人間関係の中ではよく見かける。結局直接伝えるのが一番効果的だと思っている。意識の低い人たちの「やる気」を削らずむしろ奮起させるテクニックに、まず前提として、仲が良いこと、気を許していること、聞いてもらえるという信頼関係的感覚。指導者に対して懐疑的ではなく、親近感や魅力や親愛や尊敬などの好意的な気持ちがあると、ちょっとした励ましが簡単に転じてプラス作用になるのだ。業務的会話の中にあるささやかなジョークであったり思いやりであったり。

 

 面と向かってする指導よりも第三者的に同情しながらささやく方が心理操作の効果が高い。(岡田尊司著「マインドコントロール」より)

 

 私個人的には、日本得意の飲みニュケーションの中にいつもそのテクニックを感じていた。僕の人生では色々なタイプの先輩上司がいて、同情しながら第三者的にアドバイスする人もあれば、熱く「オレについてこい、ケツふいたる!」と語る人にはとにかく強烈な魅力をいつも感じていた。非才な僕ががんばれたのは、そういう方々のお蔭だった。「任せたぜ、おまえはやってくれると信じてるぜ」と言われた時の高揚感は麻薬で、骨身惜しんで働けた。「腕上げたな、こんど教えてくれよ」と言われたときは、つらい努力が報われた。自分がそこそこ成果をあげれたのは、支援と指導のお蔭だ。自分だけのものにしてはいけない、得たなら業務的成果だけで返すのではなく次世代へウォームハートも振る舞うべきだ。成果を上げた人間だけで徒党を組まず、横軸ではなく縦軸のチームを持ってはどうか。将来的に必ず財産になるはずだ。非才ゆえ役に立たなかったが、僕はそういう先達のお蔭でがんばれて、今も根拠のない自信を持ちながら立花や法話や小規模な座談会を楽しんで生きていられる。

 

 高い能力者もまた成果に酔い偏固してしまうかもしれないから気をつけないといけない。だから賢い人は謙虚さをもっていたが、最近は欧米化・個人主義化が進んで謙遜しなくなり、堂々と低評価の者を切り捨ててしまう。

 「自己責任論」「できて当たり前、努力して当たり前、よくやって当たり前」というお仕事のできる人たちの理屈は昔からあったが、数値化によってより一層が攻撃性を増し、蔓延し始めているように感じている。メリトクラシーはなくならず益々発展していくと思う。

 組織内の人材を資源にするかゴミにするかは、結局いつの時代も経営側や指導者の苦労次第なのか。つらいなぁ、どっちも。

 

参考文献 マイケル・ヤング著「Rise of the Meritocracy」

 本田由紀著「ハイパー・メリトクラシー化のなかで」

 岡田尊司著「マインドコントロール」