信仰心がないこと。不信心。
他者や事象、物事を、立場と都合の善し悪しで信用するかどうか決める心。
他者や仏法を決定的に信じることができない煩悩。
バーナム効果という心理作用がある。
これは占いなどでよく使われる手法で、
「あなたには実はロマンチストな部分もあります」
「実は怒りっぽいところもあります」
「先祖の中に何か罪を犯した人がいるようです」
などと、誰にでももしやと当てはまることをさも言い当てて、対象の心理や行動を操作するテクニックだ。占い系の新興宗教は勧誘のためにこういったテクニックを研究して巧みに人を信じさせて囲い込むので用心が必要である。
朝のテレビ運勢占いなどは星座ごとに違うことが書いてあるが、全部多くの人に当てはまるように書いてある。毎日あれを作るのも大変だと思う。注意深く見ていると使い回されている内容も良くあることに気づくだろう。
人がその占い内容を心に留めたり気にしなかったりする要因は、その人の立場と都合に良いかどうかである。
仏法や事象を、都合よければ信じ、悪ければ信じない煩悩を【不信】という。【不信】は【愚痴】(無明)の随煩悩で、「自己の考えに執(とら)われていることに無自覚でいる(無明)」から【不信】が起こる。
トランプ政権下では「温暖化は科学者がねつ造したウソだ」としてアメリカはパリ協定(COP21)から脱退した。CO2削減努力はアメリカにとって経済的リスクが大きかったからだ。
──ある家で葬儀があった。妻を亡くした御仁は七日ごとに中陰勤行を拙僧と共に大切に勤められていた。ある時、中陰壇に奇妙な石コロが置いてあったのでおたずねした。
「先日、全然見たこともない人が来て、死んだ妻の古い友人だと言って、訃報を聞いて驚いてやってきたと言うので、仏間に上がってもらってお参りしてもらった。話をしていると、確かに妻のことは知っているようてはあったが、その人について妻からは聞いたことなかったので内心は半信半疑ではあったが、丁寧に対応していると──」
客:「昔に犬などを飼っていませんでしたか?」
氏:「はい、柴犬かってましたよ」
客:「……やっぱり」
氏:(コイツあやしいなぁ~)
客:「奥さんが亡くなってから、おかしなことや悪いことが起こりませんでしたか?」
氏:「あ、そう言えば葬儀のすぐ後に泥棒に入られて、」
客:「やっぱり! 泥棒ですか。良くない“気”が悪いものを呼び込んだんだと思います」
氏:「???」
◇
氏:「──それで、その石を置いていったんですよ。良くないことが続くかもしれないって言って、お守りになるからって。いらんって言ったけど、お世話になった友人だったから、タダであげるとか言って」
私:「ははぁ、それは霊感商法みたいなものかもしれませんねぇ。今度はツボとかパワーストーンとか売りに来ますよ」
氏:「こんなんイラン! どうしたらいいですか?」
私:「その石は私が引き取ります。もう一回その人が来たらお坊さんが持って帰ったと伝えて、追い払ってください。親身な態度で入り込んで来ようとするので、用心してくださいね。石返せとか言ったら、お寺まで取りにいけと言ってやってください。とにかく、家に上げないようにしてください」
後日、例の人はもう一人連れて現れた。その連れは奈良から来た有能な占い師だと名乗って、何度か故人を占ったことがあるという。なんとか取り繕って家に上がろうとしたそうだが追い返された。ちなみに石コロは拙僧の部屋にまだあるが、とくに変わったことは何もない。
人間は基本的に損をしたくない生き物だ。だから信用に足るかどうか見極めようとする。それこそ【不信】のなせるワザ。
一方、信じたいのに信じられないという苦悩もある。
家族を愛情をもって心の底から信じたいのに、信じられない。
部下を信頼して任せきりたいのに、信用できず途中経過を報告させる。
そしてもっとも人間にとって辛いのが、釈尊の教説を信じたいのに信じられないということである。
すなわち、極楽浄土があって欲しいと切願しているのに、それが信じられない【不信】の業苦は人生最後までつきまとうということだ。
だから習慣的に信じようとする行為すなわち仏事や聞法は大切なのだ。仏法はいのちに寄り添い、苦悩の人生を生き抜く支えになるのだ。たとえ【不信】に苦しんでいても、仏がその苦悩を我がことのように受け止め共にいてくださっている。
人は都合悪ければ仏法も捨てるが、そんな人間だからこそ如来の大慈悲が私たちを見捨てずにはたらいている。本願念仏、摂取不捨とはこのことだ。
※筆者について以外の各エピソードは個人を特定できないように、内容を変更しています。