罪を恥じないこと。
自ら罪を作り、自らの罪を恥じることがない。他人に対して思いやりや恥じらいがなく、他人を尊敬する気持ちもない。自己を恥て反省する精神性と謙虚な姿勢を喪失する煩悩。
ある人のSNSを覗いていると、こんなことがあった。
その投稿者の家で飼っている、高齢の大型犬がいよいよ弱ってきていて、その介護の様子や犬が認知症になってきている様子がSNSにUPされていた。
老犬は、おむつをはいて、弱い視力で何もいない空を見つめながら唸り、四六時中飼い主を求めて鳴く。飼い主を臭いで確認すると、ぺろっとなめて、尻尾が力なくゆれる。
そんな老犬と飼い主である投稿者が一緒に寝転がったツーショットの画像がUPされていた。
老犬は飼い主者にもたれかかって幸せそうだった。
投稿者の朗らかな慈愛の笑みが印象的で、その写真に見ほれてしまった。投稿者とその犬の絆が一目で分かる一枚だった。拙僧もかつて飼っていた動物たちを思い出し、優しい気持ちになれた。家族、子どもに優しくしようと思った。
しばらくしてもう一度そのツーショットが見たくなって、SNSを覗くと沢山の方がその投稿に色々な心温まるコメントしていた。
しかし、その中に「ひどいね」マークが沢山ついている心ないコメントが一つあって、その内容に私はギョッとさせられた。
「その犬の動画をyoutubeにもUPしたらどうか。動物ものの動画は感動するから、きっとうけるからやってみてはどうか」
という内容だった。こんなコメントには「ひどいね」マークが沢山付いて当然だろう。
文面から察するに、投稿者の何かの関係の先輩にあたる人なのだろう。
「それって、家族の衰弱していく様子を動画にして売り物にしたら?ということに類した発言ですよね」「じゃああなたが弱ってきたら、ビデオ撮影に行きますね」
などと、別な関係の人々から指摘されて、そんなつもりじゃなかったと長々言い訳のような発言をしていたが、謝意はみられず、恥じてもいない。むしろ自分はスゴイ提案をしたのだと主張する「ひどいね」マークの人と、指摘した人のコメントの応戦は続いていたが、それ以上先のコメントは読みたくなくなったので拙僧は見ていない。何か美しいものが穢された気がしていたのだ。
衰弱していく純粋な命に寄り添っていると、色んな深い深い感情が起こってくる、この美しい機をなんというのだろうか。一旦の浮生の儚く美しい様は、なんと表現したらいいのだろうか。慈悲としか言いようがないというか、仏を観ぜずにおれない。一切衆生悉有仏性とはこのことか。
こういうこころの整理のためだったり、誰かに共感してほしくて、その投稿者はSNSに掲載したのだろう。
ただ、その美しい機を、他人に「売りもんにせえ」と言われる筋合いは全くない。
このように、恥じて謝る気にもなれない煩悩を【無慚】という。同じ煩悩が拙にも備わっている。
こういった煩悩悪障の凡夫のために、弥陀の本願が開かれた。私は見る気も失せたのだが、阿弥陀如来は見捨てないで「そんなお前を救う」と願い続けているのである。その語りかけはどこからでも働いている。受け取る姿勢の問題だ。
※筆者について以外の各エピソードは個人を特定できないように、内容を変更しています。