増上慢

さとりを得ていないのに、得ているふりをして驕り高ぶる煩悩。

 仏教学的に説明すると、釈尊が悟った「正覚」を、得ていないのに「さとりをひらいた」とウソを言って驕り高ぶる煩悩である。

 分かりやすく言うと「分かっていないのに分かっている」と言ってしまう優越錯覚作用だろうか。

 

親「はやくしなさい!」

子「分かってる! うるさいなぁ!」

 この風景は我が家でよく見かけるが、親があまりうるさく干渉しすぎると、子どもは逆に「言い訳する力」「後回しする心」「面倒くさがる心」などを伸ばし、うるさく言う親に対して反発するこころを育てる。分かっているつもりのことを「分かってるつもりに過ぎないでしょ!」と指摘されたら、大人子ども関係なくイラッとするものだ。

 

 昔、拙僧の身にこんなことがあった。

 初めて法話講師の依頼が来た若かりし日、辛かった努力が報われた気がして、とても嬉しかった。

 そして有頂天になって同期の仲間に自慢してしまったことがある。

 その時の言い方も慇懃無礼で「いやはや困った、こんな若僧に身に余るご依頼。しっかりやれるか不安だ」みたいに言ったものだ。対してたいていの友人たちは「すごいじゃないか」とか励ましてくれるが、中には、

「おまえ、大丈夫か? 今よりもっと法話修練せねば恥かくぞ」

 と、本当の意味で心配してくれる者がいた。それにも関わらず、拙僧は彼に向かって「大丈夫じゃい、分かってるわい、ちゃんとできるわい、お前に言われる筋合いないわい」と口からでそうになるのを、心中になんとかおさめ、逆に敵愾心を抱いた。それぐらい、私は慢心していたのだ。それを見抜いての一言だ、尊い導きだった。友だからこそ、言うてくれたのだった。

 

 説法のご依頼が一件きただけで、なにか一流の講師の仲間入りした気分になって、修練を怠ってはいけないぞ、慢心してはいけないぞ、と、私を本当の意味で案じてくれた彼こそ、真の友であったと反省できたのは、しばらく経ってからだった。

 

 なかなか、慢心が邪魔して素直になれなかったことを打ち明けた時、

「ハハ、造作もない。俺も同じ体験したのよ」

 と、その男は快活に笑ってくれた。

 仏法を聞いている身だからこそ、指摘できたし、仏法を聞いている身だからこそ、復縁できた。

 

 尊い大切な導きが、慢が邪魔して受け取れぬ、なんとも迷惑な名利心だ。 

この煩悩と似たようなバイアス……自信過剰効果、優越の錯覚、ダニング=クルーガー効果

※筆者について以外の各エピソードは個人を特定できないように、内容を変更しています。