慢過慢

自分より高いレベルにある者に、自分は対等以上であると誇示する煩悩。

 身近な現象で簡単に説明すると「知ったかぶり」である。

 とある話題の中で、相手の方が良く事情に精通している場合、「自分もそれ知っている」「自分はもっと知っている」と誇示してしまう煩悩だ。その知ったかぶりトークはウソや推測の内容になってしまうので、相手を不快な気持ちにさせてしまう可能性はとても高い。知ったかぶりはほどほどにするべきだ。

 会話の潤滑剤として、「ああ、それね、はいはい、知ってるよ、それで、それで?」とテンポや流れを良くし、相手に気持ちよく語ってもらうつもりで合わせる程度の「知ったかぶり」なら可愛い。しかし、相手が自分よりよく知っているコトが気に入らない、自分の方が優れていると誇示したい、話の主軸が自分ではないことが気に入らない、などなど、【慢過慢】に起因した態度が出てしまうと、相手は不快に思って当然だ。

「ちゃうちゃう、そういうのオレも体験したことあるで。オレにもよくあるけれど、こうするべきやで」

 ウソや推測で語られるとしらけてしまって必然である。

 このように、かぶせて自分の方がよく知っている、と話に割り込まれたらどうだろう。上手な知ったかぶりならまだしも、話の腰を折られたような不快感は残るし、半信半疑で話を聞かなければならない状況は、けっこう辛いし面白くない。今後、その者との関係に距離が生まれるだろう。

 だから、【慢過慢】の知ったかぶりの相手をしなければならない人の胸中は、

(なんだ、また知ったかぶりか。指摘しても関係が悪くなるだけだし、ガマンして話を合わせておいてやるか。まったく、どこまで本当でどこからウソなのか)

 とあきれており、引きつった笑顔をしていることだろう。

 

 さて、地獄と極楽のかわりめになるのが、そういった自己顕示欲が自分の中で働いていることを、自覚する習慣を持っているかどうかという一点だ。

 無自覚のままならば、その者は自己を誇張し続ける迷いの連鎖に身を起き続けることになる。「自分はスゴイ」と自分と周りにウソをつき続けることなる。慢心で尊大な気分は学習意欲を低下させるので、成長も芳しくないだろう。身の程を知らされることは大切なのだが、普段の生活に戻るとどれほど痛い目に遇っても忘れるようになっている。それほど煩悩は業が深いのだ。

 忘れる私たちのために、祖先は仏事という形で習慣を残してくれた。

 自分が煩悩に酔って無自覚でいることは、自己の外からお知らせされる。他力という、照らし出された自己の真実に向き合う智慧と、罪を犯しながら生きる者を決して見捨てない慈悲がわたくしに働いているのである。

この煩悩と似たようなバイアス……自信過剰効果、優越の錯覚、ダニング=クルーガー効果