我執によって自分が中心でないと不満に思う煩悩。自己中心的。
ジコチューのことだと言っていいだろう。
幼子が、引っ繰り返って「あれ買って買って」と駄々をこねる姿は、最近見かけなくなったが、そういう煩悩である。
思い通りにならないと不平不満をまき散らし周囲の人を困らせる煩悩。
であるからして「我慢をおさえなさい」と言うのが正解なのだが、近代ではすっかり「ガマンしなさい」というふうに使われるようになった。お坊さん的には、「我慢」(尾にアクセント)といえば煩悩のことで、「ガマン」(頭にアクセント)といえば日頃使う言葉として使い分けている。
仏前結婚式というのは、厳粛な雰囲気の、なかなか良いものである。
とある仏前結婚式にてこんなことがあった。
新郎の叔父の70代男性が席次が不満だったらしく、大きい声で「なんでオレがここやねん、どないなってんねん!」とスタッフに不満をぶつけて周囲を困らせていた。せっかくの厳かな儀式の場が傲岸不遜なオジサンのせいで沈鬱な空気になった。
新郎の父と母が謝ったので怒鳴った本人は満悦だ。甥の祝いの席で人を謝らせて喜ぶ姿はとても醜いものだった。席次は間違っていたらしい。不当な扱いを受けたとはいえ、祝いの席で怒鳴る神経もどうかしていると思う。そのオジサンも自己中心的で我慢を控えることのできない、ちょっとガマンすることができない、思い上がった思考が膨張しやすい生活習慣なのだろう。
式の席次は血縁順位的に作らないといけないので、親戚多いと間違えることもあろう。また披露宴も主賓や新郎新婦の勤め先の関係などもあったり、席次を決めるのはさらに大変だ。昨今は新婚夫婦が「自分たちの結婚式だ」と言い張って式の段取りをほとんど決めて、両親はお金を出すだけ、というものが多い。古式に疎い故に間違いも起ころう。確かに主役はお二人だが、自己中心的になりすぎて両親や周囲の意見を聞いたり、相談したり、確認してもらったりする姿勢がないのも悲しい問題だ。
結婚を控えたある青年に先の話をすると、自信満々にこんなことを言った。
青「自分は結婚式の二次会の幹事を何度もやっているので、自分ならそんな間違いは犯さない」
拙「ほほう、それは頼もしいね」
青「平等に、全員くじ引きで決めてシャッフルして座ってもらう」
拙「いやいやいや、披露宴はコンパじゃないんだから。勤め先の上司とかが下座になったらどうするの」
青「そういう面倒くさい人は決めておく」
拙「どこが平等やねん」
仏事とは、私は大丈夫かな、と我が身を振り返る時間を、仏前に座る時間として習慣化してきた証なのである。であるからして法事で法話があるのは大切なことなのだ。先のオジサンに今更伝えても、届きにくそうだが。
一 仏法者、もうされ候う。「わかきとき、仏法はたしなめ」と、候う。「としよれば、行歩もかなわず、ねむたくもあるなり。ただ、わかきとき、たしなめ」と、候う。『蓮如上人御一代記聞書』
この煩悩と似たようなバイアス……自己中心性バイアス、Always being right(常に私は正しい)
※筆者について以外の各エピソードは個人を特定できないように、内容を変更しています。