心が昂ぶって平静な心を失っている状態になる煩悩。
五蓋の一つ。
やる気に満ちあふれた興奮状態では、得られるものも多くある。しかし長続きはしないし、リバウンドもある。
拙僧は学生時代の部活道で、心が昂ぶると力量以上の結果を出せたりする体験をした。もともとの性格もあって、試合では勢い任せなプレーをしていたと思う。反面、勢い余って怪我の原因になったり、仲間に迷惑をかけたりしていたので、よく昂ぶりを抑えるように指導されることもあった。しかし興奮したわたくしにはなかなか指導者や仲間の声が聞こえず、ようやく聞く耳が持てたのは、選手としては致命的な怪我をした時だった。
なぜもっとコーチや仲間の声を聞かなかったのか、とても後悔すると同時に、なぜ聞けなかったのか、という問題に当時の私は興味を持つようになっていた。寺に生まれたという縁もあって、「因縁」という釈尊の教えに従って、過去の自己を観察(かんざつ)すればするほど、自力ではどうしようもない精神状態だったように思えた。「おまえはスイッチ入ったら鬼神(奇人)になるからな」と仲間に言われたことがある。半分冗談、半分事実だったのだろう。私の問いは、なぜ、自分の中に鬼神(奇人)が宿るのか、という点であった。
どのような場面でも、練習以上の力を出そうと勢いづくよりも、練習通りやろうと集中する方が良い結果がでやすいと、スポーツを通して習った。普段からの所作を大切にして、心身に染み付いたものがあってこそ、普段以上の力が出てくるのである。
心が昂ぶり平静を失った状態になる煩悩を【掉挙】という。心も身体も溌剌と元気な時もあれば、鬱々と暗く沈み疲れることもある。この波の上下幅と間隔を平坦にバランスを取るためには、個人努力だけではなかなか難しい。バランスを失調して暴走する自己へのアドバイスが聞こえるようにするためには、普段からの聞く姿勢が肝心なのではないか。
つまり、学生時代のわたくしに【掉挙】が強くはたらいた原因は、勢い任せで過ごしてきた業(体験、経験、習慣、思い、行いなど)の積み重ねによって表れた因縁生起であった。鬼神(奇人)は最初からわたしの中にいた。業縁を生きる私たちには【掉挙】をどうにか抑えるようなことはなかなか難しい。拙僧も年を重ねて自分の傾向が見えてきたとはいえ、【掉挙】は抑えることができても、鬼神(奇人)は宿ったままである。
仏教では先ず「聞く」という姿勢を大切にしている。法座が開かれる時、必ず前唱する三帰依文の中に「仏法聞き難し、今すでに聞く」という文言があるのは、古代から人々の聞く姿勢が先ず問われてきたからであろう。
自力ではどうしようもない自分の問題に遇った先人たちは、南無阿弥陀仏の中に生きて、その守り伝えてきた教えを先ず「聞く」のだ。悪を転じて徳を成す正智の中にいるから、【掉挙】である私自身を大切に生きることができる。
2023年2月 釋大信
※筆者について以外の各エピソードは個人を特定できないように、内容を変更しています。