【悩】のう
【瞋】の小随煩悩
悩むこと。どうにもならないことを考えること。
ある80過ぎの嫗は、拙僧が月参りに来るのを楽しみにして、紅茶や抹茶を振る舞ってくれる。そして話が弾むと、自分の辛かった体験を、誇りにして語ってくれる。
『──20代の頃、第一子の男児を授かった時、本家に挨拶に行くと、何かの拍子に本家に嫁いだ小姑が人相を変えて罵ってきた。小姑は自分より先に子どもを産んだ私がとても嫉ましく激昂したのだった。あんな汚い言葉をぶつけられたのは人生で初めてだった。
小姑は「もう子どもうまへん!」とものをなげてきた。私には当たらなかったが、何を投げられたのか、もう忘れた。しかし夫の言葉にもとても驚いた。「どうせお前が義姉さんに自慢したんやろ」。この人は私を守ってくれない、と本能的な危機感を感じて、本家には近づきたくないと心の底から思った。
それでも何かの節目には顔を合わさないといけない。その度に理不尽なイヤミを言われるようになり、何故ここまで言われないといけないか、悔しくて涙がでた。男児を先に授かっただけで、ここまで嫉まれるのか、意味がわからなかった。女の価値を何か途方もなく勘違いしている。
唄いの会に20年以上習っていた。お稽古の世界にも嫉みに狂った意地悪な人々はいるので、気をつけないといけない。
私は先に入っている友達に、熱心に誘われてその唄いの会に参加した。
性に合ったようで上達は早く、先生にも気に入られ、やがてその友達を追い抜くカタチになってしまった。
すると友達からは無視されるようになり、影で私の悪いウワサを流すようになった。同時に他の先輩方からイヤミを言われるようになった。
「あんただけが上手なんとちがうで」
「お世辞で先生に褒められてるのがわからないの?」
と言われ、悪い空気が流れ始め、あからさまな嫌がらせもはじまった。
先生はイジメに気づかないふりをしていた。
イジメは酷くなっていき、早く辞めれば良かった。しかし自分の唄いはプライドになり始めていた。
とある唄いの大会、壇上に登る直前に客席からプレッシャーかけられた。
「先生のお気に入りの登場でーす!」
「ケラケラケラ!」
それまで耐えて気丈に振る舞っていたが、ついに崩れてしまい、その時はまともに唄えなかった。
その一件の後、先生から別の教室を紹介してもらい移籍した。何故被害を受け続けた私が責められるように逃げなければならなかったのか。大きな敗北をしたような気がして、思い出すと今も辛い。
女学校以来の親友がいて、彼女は私なんかよりもっと辛い境遇だった。二人で辛い体験をよく泣き慰め合った。
その親友には結婚を前提にお付き合いしている男性がいた。しかし親友の両親に赦してもらえす、見合い相手と結婚することになった。その結婚も、お見合いの時に一度顔を合わせただけで、次に会うのは結婚式という段取りで、あからさまに両親はさっさと結婚させたかったようだ。親友は式の最中ずっと沈んでおり、時折涙を見せていた。
嫁ぎ先で姑・小姑・夫にいじめられる親友の地獄の日々が始まった。育ちが悪い、常識が無いと毎日いびられ、彼女の妹までも小馬鹿にされたそうだ。堪えきれず実家に逃げ帰ると逆に追い返されて、彼女には逃げる場所もなかった。ストレスで何度か流産し、体調を崩しても姑や夫から優しい言葉をかけてもらったことはなかったそうだ。
その夫は浮気をくり返し、姑はその浮気の原因は妻である親友にあるとして罵ってきた。聞けば「殿方は浮気して一人前、自分もされた。その程度でなんなの。そもそも浮気されるあんたが悪い」ととても歪んだ夫婦観を聞かされた。義母の無茶苦茶な理論の中に、かつて姑も浮気されて辛い思いをした様子が垣間見えたそうだ。その矛先がなぜ自分に向けられるのか、全く理解できなかった。
辛い状況の中で、親友は私に会って話をすることが生きる希望だと言った。
「人って、ここまでイジワルになれるのね」
「ねぇ、私たち強くなろう」
「ええ、でも挫けそうになったら私をよんでね」
「あなたもがんばりすぎないで、私が聞くから」
「いつか、私たちの息子にお嫁さんが来てくれたら、絶対守ってあげようね」
「そうね、決してイジメや嫌がらせをしない人になりましょう」
その誓いが希望になって、挫けずまっすぐに生きられた。辛いことがある度に2人で支え合った。
──「友達と誓ったの。絶対、いじわるしないって」。』
嫗はそう言うと、嬉しそうに誇らしげにして、お内仏に向かって合掌念仏した。そこにそのご友人の法名や写真が飾ってあるわけではないのに、拙僧にもその方の暖かく強い導きが感じられた。
自分が傷ついても、嫉まず人を悪く言わず、意地悪しない。まっすぐ生きた、とても美しい合掌だった。
仏と成った人の導きを還相回向という。
二人の誓いは今も燦燦とはたらいている。
※筆者について以外の各エピソードは個人を特定できないように、内容を変更しています。