生きる目標と信仰と職務が全て一致している、僕はもう大丈夫

光源寺 住職 加藤孝法

 

「まずは掲示板から」

 

 約20年前、当時自分(加藤孝法)が高校生だった時、実母(故悦子51歳)祖母(故たへ子88歳)を相次いで亡くし、光源寺住職だった父正和は気力を落としてしまい、お寺の法務の大半ができなくなってしまった。それ以降今日に至るまで報恩講や彼岸など法要法座は開かれていない。それでも光源寺を支えてくれる僅かで篤い門徒に支えられ、空手や合気道に道場を貸すなどして何とか父子で生活してきた。

 法要をしなくては、お寺としての機能を取り戻さなければ、と気持ちだけ焦るが仕事は手に付かない状態の父は、いつも寂しそうで辛そうだった。

 高校2年で母を亡くした自分は、それ以降土曜日曜祝日は月参り法事などの法務をこなし父を支えた。なんでオレだけ、と境遇をよく呪う青春時代だったが、友達のお蔭で何とか大学は卒業できた。

 そして去年8月、父正和(前住職72歳)が急逝し、とうとうお寺に自分独りになってしまった。父が可愛がっていた老犬2匹、いつも自分と一緒に寝ていた猫も後を追うように相次いで亡くなり、重なる死別の逆縁に心も体も疲弊した。この寺は独りで住むにはあまりにも広すぎて、家族が恋しい。少年時代のように父母はじめ人の集うお寺が懐かしい。しかし無力な自分に何ができるのか、知識が乏しく何から始めたらいいのか、困っては自分を責める連鎖の中にいる。この苦しみを父は背負っていたのか。

 悲しみの中にいる時、友から茨田通俊先生の詩が電信されてきた。御遠忌テーマソング「今、いのちに目覚めるとき」だ。それは確かに感じていたことであった。孤独と絶望の底にいるはずなのに、見捨てない暖かいものがこの身を包んでいる事実を、先生の歌詞に確かめることができて、何度も何度も読んだ。このことを皆に伝えるための寺だった。父の悲願であった報恩講を復興しよう、決意を新たにし、この願いが自分に生きる目標を与えてくれている。

 気力の萎えた父が休まずに続けていたのがお寺の掲示板。画用紙に達筆で言葉を選び、クレヨンや絵具でイラストされてある。そしてやがて今の状況を見越していたのか、紙の裏が補強されており何度も使える工夫がされている。作品数は二〇〇を越える。

 門徒や仲間から伝わってくる情熱と支援の慈悲が、身を焼いている。伝えたい、法要したい、聞法道場を再興したい。この2月に住職修習を受け、とりあえず父のマネをして筆をとってみた。イラストはまだ難しいが、父もこのように思いを込めて書いていたのだろう。まずは掲示板から始めてみよう、ほとんどゼロからスタートだ。光源寺新住職・加藤孝法談。

「生きる目標と信仰と職務が全て一致している、僕はもう大丈夫」

 


始めて自分で作った掲示板 茨田通俊先生の歌詞から頂いている

 


「作業机道具はそのままだったからすぐできた。色んな本が父の付箋だらけ」