蓮如上人「疫癘(えきれい)の御文」より

さもありぬべきように

蓮如上人「五帖御文4-9 疫癘(えきれい)の御文」より

 当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生まれはじめしよりしてさだまれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。しかれども、いまの時分にあたりて死去するときは、さもありぬべきようにみなひとおもえり。これまことに道理ぞかし。このゆえに、阿弥陀如来のおおせられけるようは、「末代の凡夫、罪業のわれらたらんもの、つみはいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくうべし」とおおせられたり。かかる時はいよいよ阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、極楽に往生すべしとおもいとりて、一向一心に弥陀をとうときことと、うたがうこころつゆちりほどももつまじきことなり。かくのごとくこころえのうえには、ねてもさめても、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ともうすは、かようにやすくたすけまします、御ありがたさ、御うれしさを、もうす御礼のこころなり。これをすなわち仏恩報謝の念仏とはもうすなり。あなかしこ、あなかしこ。

   延徳四年六月 日

現代語訳

 延徳四年(1492年)の当時このごろ、思いのほかに、疫病によって多くの人が死去している。

 この事態は、実は、疫病によってはじめて死ぬのではない。生まれた時から定まっている業なのである。

※補足 仏教では、すべての生命が「量り知れない尊いいのち(無量寿)」であると教える。すなわち、いかなる死に方であっても、それで良し、量ることのできない尊いいのちなのである。もっと言えば、生者と死者と凡夫は隔てるが、いのちは無辺の尊いものなのである。凡愚は健康の方が良い、病気は良くないと判断するが、み仏はいのちを比べたり量ったりせず、我が事として全て受け入れ摂めるべき、量ることのできない尊いいのちなのだと、見ているのである(於諸衆生 視若自己)。疫病で死んだからといって、もったいない人生ではない。隔てなく尊いいのちなのである。その人は浄土に往生するいのちであり、無条件に尊いのであり、悲しまずに有難く受け止めるべき今生での別れなのである。


 定業であるからと、仏の教えでは、そんなに驚いて悲しむようなことではないと伝え教わる。

 しかしながら、今この時、有縁の人々が感染し、病に苦しんで、死んでいってしまう現実の前で、「伝染病のせいで死んでしまった。なんと苦しい現実か、なんと悲しい死別なのか」と全ての人が悲嘆している。

 私も含めて、教えに反して悲しむことは当然の道理である。

※補足 すなわち、我々には、仏のように、菩薩のように、定業と受け止めることなどとてもできない。死別を尊いことと、受け止めることなどできない。教えに反した生き方しかできない憐れで愚かな者なのである。


 だからこそ、阿弥陀如来は、

「過去未来現在に渡り、全てのいのちに呼びかける。煩悩、執着に惑わされ苦悩の道を行くしかできない我が愛しき生命よ。罪と業を自覚し、自力ではどうしようもないと、こころの底から救いを求める者よ。仏の教えに反した生き方をしてきた罪がどれほど深いものだったとしても、それで良い。そのまま救う。南無阿弥陀仏を称え、阿弥陀のいのちへ帰せよ。必ず浄土に救う。決して見捨てない、諦めない」

 と我ら凡夫のために誓われた。(本願)

 

 このように、弥陀の本願がはたらいている中を生きる我々は、いよいよ深く南無阿弥陀仏を称え、阿弥陀如来にこの身を任せ、極楽に往生する人生だと思いを定めて念仏のある人生を歩むべきである。一向一心に「阿弥陀のいのちに帰すること」を尊きことと、疑うこころはわずかとも持つべきではないのである。

 

 以上のように心得たならば、寝てもさめても、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏申すことは、このように我々を容易く救う、ありがたさ、うれしさを、もうす御礼のこころなのである。

 

 これをすなわち仏恩報謝の念仏というのである。あなかしこ、あなかしこ。

   延徳四年六月 日

感話

 このいのちは、生まれた時から定まっており、如何なる死に様であってもそれは尊いいのちであると、いくら学んでも、別れはつらい。

 別離の悲しみが深ければ深いほど、それだけその人大切にしていたという証である。

 仏教では執着を捨てよと教える。人を亡くし悲しむその想いは執着や依存であると、とても厳しく身の事実をしらせてくる。

 大切な人を大事に想うことが、愛しいと思うことが、煩悩であると知らされて、たとえそれが真理なんだとしても、煩悩具足の凡夫である私にはとうてい容認できない。今生きている者は、みなそうであろう。

 拙僧は何度も葬儀を執行し、別れの悼みに遇ってきた。葬儀を執行する度に、遺族の心情を想像すると、これまで遇ってきた別離の情が重なって、拙僧の未熟な精神を支配しようとする。仏の教えに従い、讃嘆するべき儀式であるにもかかわらず、胸中は悲しみでいっぱいになる。

 この様な生き方しかできない者だからこそ、必ず救うと誓っている、阿弥陀如来の本願に無上の頼もしさ、有り難さを感じるものである。み仏ははるかな昔から、この身に寄り添っているのだ。「その悲しみ、それで良い。そのまま迎え取る、心配するな、大丈夫だ」と。

 だから、臨終に際して、ただ寄り添い、仏の教えを伝える他に、拙僧には何もできないのである。(釋大信)


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