とある長男男性の話である。
認知症で施設に入居している母から何度も「空き家になったウチの、お内仏(仏壇)が心配だ、おとっちゃんにお仏飯せんと」と言われ、辟易していた。(あんなでかい、古い仏壇どうすんねん、面倒くさい)とは思いながらも、長男としての意識と、ほったらかしにしている後ろめたさもあって、当院に相談に来られた。
古いお内仏の本尊は当院に奉納し、長男宅では小さな現代仏壇を購入され、御移徙法要(入仏法要)をした。
「ああ、ありがとな、ありがとうなぁ」
息子氏は拝まれるように合掌されて、感謝された。よほど嬉しかったのか、涙していた。その涙を見てようやく、これまで母が大切にして心配していたお内仏を放っておいた罪の意識、何よりも母に相談せずに勝手に小さいお内仏を買い替えた罪の意識を痛感し、時を経て拙僧に告白してくれた。
母はお内仏はまだそのままだと思っている。その漆塗りの古い立派なお内仏は、大きいとはいえ、今の家でも置こうと思えばできないことはなかった。
「ああ、ありがとな、ありがとうなぁ」
母が涙して喜ぶほどのものを、なぜ、自分は本質を見ようとせず軽んじていたのか。長男氏は良心の呵責が小さなお内仏を見る度に思い起こされ、仏とは何か、本尊とはなんなのか、仏法を訪ねるようになった。
いつだったか「この慙愧の念は、私を仏法へ誘う縁だったのですね」と言われたことがある。
この身が仏の智慧と慈悲に包まれていた事実を教えに確認することができて、小さくなったお内仏も大切に思うようになられた。
認知の母は、心配事が減ったのか、すっかり大人しくなってしまい、息子さんの視点では「可愛くなった」そうだ。
時々、御移徙したことを忘れて、また心配する。
「この顔見たら、お内仏のことを伝えなきゃ、って一生懸命忘れないようにしていたんですね。だから未だに頼んでくるんですよ」
「お内仏が心配だ、おとっちゃんにお仏飯せんと」
「お内仏は、ウチの家に引き取ったよ、家族みんなで毎日拝んでるよ。心配ないよ」
と何度も報告する。
「ああ、ありがとな、ありがとうなぁ」
と、何度もお礼を言われる。
有難そうに合掌する小さな姿に、仏性を感じ、この母の息子で良かったと思っているそうだ。
煩悩にまなこさへられて
摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて
つねにわが身をてらすなり
親鸞聖人「高僧和讚」