漢字で仏教

「 正 」

 【口】と【止】の会意象形文字。

 【口】は国や村を意味し、【止】は足の象形。

 合わせて、他国に向かってまっすぐ進撃するという意味であった。後年、進撃の意は【征】に別れ、【正】は徐々に転じて、まっすぐ、ただしいなどの意味を表すようになった。(参考:新漢語林第二版・OK辞典)


まことの「正しさ」を求める力

 かつて象形文字を使っていた時代の中国では、【国の象形】に【足の象形】を合わせて「国などにまっすぐ進撃する」という意味で使われていた。「効率の良い軍の用兵法」を表しており、やがて転じて「効率性の高い方」「強い方」「勝った方」「優れている方」など優生方向性を表す意で用いられていたが、やがてさらに転じて【一】と【止】合わせて【正】という漢字に成立した。

 【止】も「すすむ足、とまる足」の両方の意味があり、やがて転じて「止まる」意が主意に変化した。

 

 英語の歴史「history」も「his」+「story」であり、「勝者の話」と語源をたどることができるように、人類の歴史は戦争のヒストリーともいえる。そんな中、「効率性の高い方」「強い方」「勝った方」「優れている方」など優生方向性を「正しい」として使われていた文字が、「一を以て止む」という、一旦停止の意を汲む【正】に成立した背景に感動を覚える。すなわち「戦争を止めることこそ正しい」という、祖先たちの願いの込められた文字と言える。

 

 「我こそ正しい」と言うている者どうしが衝突したらケンカにしかならない。国同士であれば戦争だ。そこに正義はない。

 我が方の利を優先するために、その立場と都合を正義であるとして酔って盲目になっている、醜い自己に一旦停止して気づく力こそ正義なのである。

 車の運転ならば、一時停止線や赤信号であれば停車し、左右を確認しミラーなどで後方も見て再発進する。人生も国もこれ同じ。一旦停止して、状況や人の声を聞き、過去から学んで進む道を定めることの連続である。

 

 戦前の日本は「日本は正義である」「日本は正しい」「大東亜共栄圏は正しい」と多くの人々が暴走し戦争へ突き進んだ。国など体制が振りかざす正義ほど危険なものはない。多くの人がプロパガンダを正義と信じて、考えることを預けてしまった。正義という言葉には、時に民衆の思考能力を奪う魔力があるので用心しなければならない。

 大日本帝国の名のもとに暴走を繰り返した日本は、とりわけ周辺アジア各国に多大な被害と悲しみを被り、多くの若者を死地に赴かせ、飢えた国民は空襲を被り、原子爆弾を二発も投下され、多くの国民が亡くなってようやく止まった。

 そして祖先たちの大いなる慙愧の結晶が憲法9条なのである。我が国は決して戦争をしない、させない。対話によって解決するという、祖先たちの想いの結晶なのだ。

 

 交通信号や停止線、見通しの悪い曲がり角で、一旦停止せずに突っ走る危険運転や、あおり運転をするドライバーは、自分は正しいと思っているのだろう。また報道やネットの情報を鵜呑みにして偽りの正義に酔う者も、思考を他者に預けてしまって自分の行いは正しいと思っているのだろう。

 そのような一面がこの自分にもあると気づき、姿勢を正すことが仏教の醍醐味である。仏の説法を聴聞するということは、「一を以て止む」大事な時間になるのだ。しかしながら、我利追求していたり思考を他に預けている方が楽なので、多くの人が「説教なんて」と敬遠している。だからこそ「宗とする教え」があるのだ。

 はるか昔から仏はそんな人間の性をお見通しで、釈尊は法事などで法を聞くように仏事習慣を遺した。その教え聞く習慣を約2500年もの間多くの先達が法を聞いて守り伝えてきた。

 法事では「また説教か」とうんざりせずに、ぜひともただ今の我が行いを「一を以て止む」時間にしてほしい。

令和4年8月6日釋大信