散乱

 集中力が無い状態で、心が定まらない煩悩。

 次から次へと対象への意識が移り、落ち着きが無く平静な状態ではない状態から、思慮の浅い言動をする煩悩。

 

 親鸞聖人は「散り乱る、ほしきままのこころをいふ」「われらが心の散り乱れて悪きをきらわず、浄土にまいるべいとしるべしとなり」と左訓を遺している。

 

  【散乱】という言葉は、日常では部屋などが散らかっていることを散乱しているなどと使われるが、仏法的にはそのように散らかった思考状態のせいで、浅はかな言動をしてしまい苦悩する原因を【散乱】という。煩悩は苦悩の原因である。

 散らかった思考や乱れた生活習慣は、物理的にも身体的にも精神的にも苦悩の原因になる。よって釈尊は【戒】を弟子に定め、生活習慣が乱れないように求めた。

 

 いきないり脱線するが、【戒】とは、例えばキリスト教の十戒などはテンコマンダメンツと言って、神との契約を意味するので、何が何でも守らないといけない。一方釈尊が定めた【戒】はサンスクリット語でシーラといい、「仏教徒が守るべき生活規範」という意味である。であるからして破戒によってバチが当たるなんてことはない。バチは三味線にあたると我が祖父はよく言っていた。コマンダメントもシーラも、その他の多くの宗教の約束事や神との契約などが、【戒】という一つの漢字に訳されてしまったため、仏教の戒律なのかそれ以外の戒律なのか、注意しておかないといけない。

 

 話を【散乱】に戻すが、経験の浅い者や精神的に未熟な者というのは、特に幼い子は思ったことを後先考えずにすぐ口に出すことがある。

 拙僧の娘が幼稚園児の頃、自転車の後ろに娘を乗せている時、道ばたで60代くらいの男性がホースで水を撒いている後ろ姿が見えた。腰元にホースの先があったせいで、角度もわざわいし、立ちションベンしていると一瞬私は勘違いしてしまったが、通り過ぎ様にすぐに撒水かと理解した。

 ところが我が娘は「おしっこしてるー」と大きな声で言うのであった。すかさず通り過ぎた後ろから「ちゃうでーっ!」というオッサンの大きな声が聞こえた。すみませんでした。

 今思えば止まり降りて謝るべきだったかしら。そうするべきだったのだろうが、通り過ぎてしまった。まあ子どもの言うことだし男性も赦してくれているだろうと勝手に思っている。それ以来その道を通る度に、娘は「おっちゃんおるかなぁ」と気にしている。

 

 私にも苦い苦い思い出がある。

 小学5年生だった時、給食の時間の時に、曜日を決めて当番制で長編小説の回し朗読をする取り組みがあった。みんなでどの物語を読むのか決めたので、物語が進むにつれて次はどんな展開になるのだろうとみなわくわくした。読み手当番にも色々個性があって面白かった。私が当番の時などは感情込めて落語調に勢いよく読んだものでクラスで評判になった。法話好きの遺伝のようで自分は人前で発表したりすることが得意だった。

 当然、人前で発表することが苦手な子もいた。

 サトコという女の子がいて、普段は活発でひょうきんな女の子だった。ところが彼女は朗読は苦手だったので、聞いている方は物語が頭に入ってこない。つい私は朗読中の彼女に向かって「サトコへたやなぁ」とからかい半分で言ってしまったのだ。まるで政治家のヤジだった。

 その瞬間である。

 サトコの朗読はピタっと止まって、アッしまった、調子に乗って余計なことを言ってしまった、サトコが泣いてしまう! と拙が思った瞬間に、バターンと大きな音がしてみんなびっくりした。担任の先生が椅子を倒しながら立ち上がったのだ。

 先生はそのままズンズン私の方に迫ってきて、鬼のような形相で私をのぞき込んで「謝れー!」と大きな声で叱ってくれた。凄い迫力だった。サトコは泣くヒマもなかった。

 先生は絶妙なタイミングの迫力の一喝で私を諫め、同時にサトコも救い守った上、彼女を全面的に肯定し、調子に乗っていらんことを言うあさましさをクラス全員に指導してくれた。素晴らしい指導力だと今でも感謝している。

 今になって思えば、苦手なのに頑張って緊張しながら皆の前で読んでくれていたサトコの心中を思うと、自分の【慢心】や【散乱】した態度を恥ずかしく思う。頑張っている人を軽い気持ちで茶化して傷つける、それがどれほど重い罪なのか思い知らされた良い教訓であった。

 後日、サトコは私に朗読の仕方を教えてくれと言ってきた。彼女は私を赦したうえ肯定してくれたのだ。そしてなぜイジワルなことを言った自分に聞くのかと問うと、なんと先生が私に聞いてみたらどうだとアドバイスしたというのだ。今思えばサトコの赦してくれる態度も先生の指導も仏の所業としか思えない。

 先生の一喝はとても良い薬になった。上手な方だと調子に乗っていた自分が恥ずかしい。とても悔いている。

 

 ところがである。

 人というものは煩悩具足の凡夫である。どれほど痛い目にあってもナルホドと膝を叩いても、【失念】するようになっている。

 拙僧の娘はいよいよ小学二年生になる。が、まだまだ拙くお椀を持ってご飯を食べようとしない。二つ下の姪っ子が上手にお箸とお椀を持って食べていたので、私は焦ってしまった。

 せっかく娘は、機嫌良く美味しく食べていたのに、急に私がくどくど言うようになって、楽しかったご飯を辛い時間にしてしまった。

「お父ちゃんごめんなさい、がんばるから」

としくしく泣く姿を見て、ようやく私は目の前のことしか考えない浅い思慮で、我が娘を傷つけてしまったことに気付く。そして「お父ちゃんこそごめん」と謝るとあっさり赦してくれるのだ。

 作法に則って奇麗に食べろというのは、大人の都合だ。なにも慌てて覚えさせようとしなくても良かった。娘には彼女のペースがあるのだ。

 このように強く後悔しても【失念】して娘を傷つけることは度々あった。その度に娘の方が私を赦し「お父ちゃんお父ちゃん」と甘えてくれるのである。子どもは仏の子とはよく言ったものだなぁ。こんなていたらくの私だ、いずれ娘も成長し拙を見限る時がくるだろう。想像するだけで寂しいが、そうなってくれた方が良いだろう。

 【散乱】して【失念】する凡夫のために、仏事という習慣がある。忘れる私たちのために大切なことを思い出させようとする仏のはたらきなのである。

※筆者について以外の各エピソードは個人を特定できないように、内容を変更しています。