※本尊:阿弥陀如来立像
紫雲山恩楽寺は、戦国乱世の時代に、蓮如上人のご教化を受けて、天台宗より転派した僧・法永房によって開闢された聞法道場であります。恩楽寺が創建された天正元年(1573年)当時は、足利義昭が織田信長に京都から追放され、室町幕府が滅亡した戦国乱世の時代でした。
戦国時代を舞台にした歴史物語で見られるような鎧武者たちの英雄的活躍は、歴史のほんの一部に過ぎません。どの大名の軍隊も無報酬で士気の低い兼業農兵で構成されており、戦に勝利した際に略奪することが彼らの報酬であり、補給源でもありました。
有名な武将の華々しい活躍の影に、雑兵たちのまさに「食うため、生きるための戦」があったのです。兵たちは戦よりも「乱暴取り」と呼ばれる略奪行為に熱中していました。放火や略奪、非武装民を襲って偽首をとったり拉致して奴隷にするなど、現在であれば極刑の戦争犯罪にあたることが、戦国時代では当たり前の風景でした。
奴隷狩りや略奪などの悲惨な記録は各地に残っており、海外へ売り払われた人々もいました。こうした略奪は天正15年(1587年)の豊臣秀吉による人身売買停止令まで続きます。
※「大阪夏の陣」よりAI修正
余談でありますが、戦国時代最悪の乱暴取りとして有名なものが、「大坂夏の陣」終結直後に、徳川方の兵達による大規模な乱暴取りが大坂市内の民衆らに対して行なわれたものです。現在、大阪城天守閣に所蔵されている、自らも参戦していた黒田長政が制作した屏風絵「国宝:大坂夏の陣図屏風」の左半分には、乱暴取りに奔った徳川方の兵達が、嬉々として大坂市内の民衆に襲い掛かり、偽首を取る様子や略奪を働き身包みを剥がすところ、さらには川を渡って逃げる民衆に銃口を向ける光景、そして女性を手篭めにする様子などが詳細に描かれています。そのような残忍非道な行いが大小様々な戦の陰にあり、戦国時代においては日常風景であったようです。
民は、重い税に圧迫される中、田畑は荒らされ出兵は義務化、食うために殺し奪うしかない。殺され奪われた者は復讐心を燃やし報復の連鎖が繰り返される。結果生産力は低下しさらに貧困していく。そんな百年に渡る最悪の悪循環の中で、多くの人々が徴兵や乱暴取りの戦火から逃れ、必死に救いを求める依り所になったのが、宗祖親鸞聖人が残した念仏の教えでありました。如何なる者であっても如来本願によって往生するという究極平等の教えは、追い詰められた立場の弱い人々にとって最後の救済だったのでした。
※石山本願寺模型(難波別院南御堂蔵)
浄土真宗の寺院は進んで救いを求める人々を受け入れ、やがて真宗寺院を中心に自治団が各地で組織され始めます。その代表的なものが〝寺内町〟です。寺内町とは、戦国時代の真宗寺院、道場を中心に形成された自治集落のことです。戦火から落ち延びてきた人々、商人、落ち武者などが集住し、やがて武装して堀や土塁で乱暴取りや野盗などの侵入を防ぐようになりました。
巨大化した寺内町の中には、守護や大名からの年貢や徴兵などを退け、一種の自治経済特区と成長したものがあり、全国各地に残っています。畿内では特に1530年代に発展した石山本願寺を中心とした寺内町など複数起こり、人、物資が盛んに行き交い、大きく経済発展し現在の商都大阪の礎となりました。
※大阪本願寺の様子の模型(津村別院北御堂蔵)
阿弥陀仏の救いを求めて集住してきた人々を守るため、当時の本願寺門主顕如、次代教如は、信長からの高額な矢銭要求などの無理難題に恭順する姿勢を示して応じていました。
ところが信長の宗教弾圧は苛烈で、集住してきた者たちの中には信長に対して遺恨を持つ者や落ち武者も多く、「信長打つべし」と好戦的な考えを持つ門徒たちや、南無阿弥陀仏の教えを曲解して人々を扇動する僧侶も出現し、全体の意思統一がとても困難になっていきました。
信長からの要求はますますエスカレートし、「本願寺を破却する」とまで言ってきました。そのもとには経済発展した本願寺の寺地、石山・大坂の地を乗っ取る意向があったようです。
門徒たちの最後の依り所である本願寺を失うことには応じられず、顕如は周辺諸侯に助けを求め、各地寺内町には防備を固めるよう檄文を飛ばし、ついに元亀元(1570)年9月12日夜半、寺内町各所の早鐘をついて門徒に告げて信長との戦いに踏み切ったのです。以後十余年にわたる石山合戦の火蓋が切られることとなったのです。
信長の暴挙はとどまることを知らず、比叡山の僧坊を焼き払い僧徒数百人を皆殺ししたと言われています。本願寺と親交を結んでいた武田信玄が病没した後は、本願寺門徒に対しても厳しく迫ってきました。
天正元(1573)年8月、越前一乗谷に朝倉義景を攻めて自死せしめ、次いで浅井氏をも滅亡に追いやりましたが、この間、伊勢長島の一向一揆軍に信長は手こづっていましたが、中島、長島の砦を柵で囲み、火を放って3万人という男女を全て焼き殺してしまいました。そしてついには大坂の石山本願寺への本格的な進撃を始めました。
この天正年間に、大坂では信長の侵攻に備えるため寺院が相次いで建立されています。
この田辺の中心域には法楽寺近辺に宗派を超えて寺院が集まっていますが、これは石山本願寺の早鐘ツキバだった名残と考えられます。
早鐘ツキバとは、ツキバとなった寺院周辺に更に寺を集め、堀や塀を巡らして戦時には非戦闘民が逃げ込む防衛拠点のことです。大坂に点在する本願寺側の拠点同士が早鐘で連携しており、早鐘が鳴ったら民衆はすぐに拠点寺院内に集まっていました。
田辺地域も激戦地となり、法楽寺は信長の侵攻を受けて全焼し、この田辺地域は信長方からむごい乱暴取りを被ったようです。
天正元(1573)年、民衆の絶望極めた戦乱の時代に、地獄の苦しみから救いを求める人々に応えるために、天台僧だった法永房は南無阿弥陀仏の教えに帰依して浄土真宗の僧となり、この田辺の地に念仏聞法の道場を開いたと伝えられています。
そうして古くから田辺の仏法伝道の場として、そして民衆の寄り合い談合の場としても機能し、明治29年まで田辺村役場(東住吉区役所の前身)が堂宇内に設置されていました。
また、昭和20年7月26日に、模擬原子爆弾(原爆投下訓練用の巨大爆弾:通称パンプキン爆弾)が恩楽寺より200mほど北に投下され、甚大で凄惨な被害を田辺は被りました。恩楽寺の本堂は、その時の爆風で南側へ傾き、爆砕被害を今に現存しております。爆弾被害者や戦時下に亡くなった方々の追弔のためにも、地域の精神的支えや、寄り合いの場が必須とされ、当時のご門徒先達らによって、本堂が南側へ傾斜したまま急ぎ修復されました。
このように多くの先達らによって、幾多の苦難を乗り越えて、護持されてきた恩楽寺でありますが、ひとえに、親鷺聖人がご確認された本願念仏の救いが、人々の中心一義に確かにあったからこそでありました。平和への願いと、南無阿弥陀仏を何とかして後世に伝えていかんとする、熱い思いが古代から引き継がれ引き継がれて、当山が存続せられてきたのであります。
そうして現在も恩楽寺はこのように皆様にお支え頂いて護持されており、堂宇は傾いたままでありながらも、戦争が悲惨で非道であることを古代から未来へ語り継ぐ使命を帯びています。現代では葬儀・法事・法要の場として多くの人にご利用いただいています。そして大阪府下の小中学生たちの平和学習の場としても活用され、多くの参拝者たちが傾いた御拝柱をなでて手を合わせ、非戦平和への誓いの場として護持されてきました。
※平和学習、模擬原爆について
毎年多くの小中学生が訪れます。
ところが今日になりまして、本堂大屋根内部の主になる梁がシロアリ被害に遭い、梁として効いていないという状況になってしまいました。
そこでこの田辺の重要戦跡でもある聞法道場を保全するために、傾きを残したまま本堂の周囲から外骨格で耐震補強を施すという特殊な工事と、大屋根の修復工事を敢行することになりました。
つきましては、恩楽寺門徒の皆様には本堂を支えるための御志を頂戴いたしたく、ここに伏してお願い申し上げる次第でございます。
尚、各家庭で様々なご事情があることと拝察し、任意による御寄付という形式ではございますが、どうか当事業の意義を最大お汲み取りいただき、御心を寄せていただけますと幸いです。
甚だ恐縮ではございますが、ご理解ご協力を賜りますよう衷心よりお願い申し上げます。
何卒趣意にご賛同賜りますようお願い申し上げます。