本山や教区の活動や出版物が面白くない理由

 拙僧が所属している真宗大谷派(東本願寺)では、本山規模、教区規模、別院規模などとその活動の公性が大きくなればなるほど、その内容が面白くなくなっていく。法要、書籍、事業、なんでもそうだ。いつも無難なものになってしまっている。

 たとえば本山や各教区で何か作る場合、委員会を組織して、会議を重ねて、内容や企画を何度も検討し、その上で権威のある先生に監修してもらったりする。

 そして、どれだけ情熱を注いでもみんなで決めるので、結局どこからも突っ込まれないような安全な内容になってしまう。

 会議では「突っ込まれないようにする知識や経験」を武器にして自分の意見を言いたいだけの人もいる。そういう人は「自分の意見が通る」ことに執着していて、閉塞感のある現状を打破しようと練られてきた画期的で突飛なアイデアを潰すことで自己アピールしている。「表現に問題はないか」とひたすら点検して、リスクを見つけたら嬉しそうにするのだ。

 そして「おもろいことやろうぜ!」「多少リスクあってもかまへんやん!」という空気も、「じゃあおまえ責任とれよ」と言われて意気消沈して、面白くない会議が繰り返されて、目新しいもののない面白くない企画ができあがる。「オイラが責任とったるわい!」と粋がっても、「あなたに責任を負う資格はありません」と一蹴されてしまう。

 当たるか当たらないか、企画も本もギャンブルだと思う。

 

 面白いことをやろうとするならば、自分の寺で細々とやるしかない。

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