2021年10月

 「よつばと!」という元気いっぱいの5歳児が主人公の、ほのぼのした日常がとても面白く描かれたマンガがある。拙僧も愛読しており、有害性が全くなく一話完結型で読みやすいので、我が娘(8歳)にも自由に読ませている。

 物語の中で主人公よつば一行はキャンプに出かけ、川でニジマスをつり上げ塩焼きして食べる話があった。彼らがとても美味しそうに自分で釣った魚を食べるので、読む度に思わずお腹が空いてくる。

 我が娘もよつばに強く影響され、

「私も魚を釣って食べたい!」

 強烈に訴えてくるので、よっしゃウチも釣りに行こう! という我が家であった。

 

 日程が決まり、娘はその前週からずっとワクワクして、道中は楽しみで仕方ないといった様子で大はしゃぎだった。

 人工川に放たれたニジマスを、制限時間内に数家族が釣り上げるという遊び方で、私は一応家族分のニジマスは釣り上げたのだが、大変残念なことに、色々手伝ったのだが、娘だけが一匹も釣れなかった。

 普段から駄々をこねて親を困らすようなことはほとんどない、聞き分けの良い女の子なので、その時の激しい悔しがり様にはとても驚いた。

 食べる分は確保されているから安心しろと説明しても、

「自分で釣りたい!」

 というわけである。

「もう一度! もう一度!」

 と、涙と鼻水まみれになりながら必死に駄々をこねて、男親としては目頭が熱くなるほど痛々しかった。

 予約制なので限りがあり、もう一度は不可能であることを、実は娘もちゃんと分かっている。それでもどうにもならないことを必死に懇願してくるほど楽しみにしていたのだ。

 泣きじゃくる娘を抱き上げて、アイスクリームを与え、

「お父ちゃんが係のおっちゃんにお願いしてくるから待ってなさい。あるいはよその家族の人にもウチも混ぜてもらえないかってお願いしてくる。なんとかしてみるから」

 そう言ってやるとわんわん泣いて、そして静かに、

「もういいです」

 とポツリと言うのであった。

 

 私はカウンセラーの資格も持っており、その仕事やボランティアもしてきた。

 傾聴スキルをそれなりの自信にしていた。来談者を傾聴し、共感し、映し返す、ということがカウンセリングの基本である。自分はできている方だと思っていた。

 そんな私の慢心がポッキリおられ、苦悩の叫びに対して真剣に傾聴させるようになったのは、多分彼のお蔭だろう。

 

 以前死期が迫った当院門徒男性の話を聞く機会があった。内容は書き切れないので割愛するが、救いと浄土を真剣に求め、残される家族を案じる男性への傾聴は、それまでになく深く我が心をえぐった。まともなカウンセリングは全くできず、自信にしていた未熟な自分を恥じた。

 

 

 仏(目覚めた人)とは智悲円満の行人といい、冷静に執われることなく見聞きして、我が事のように共感し慈しむ人である。それに比べて拙僧は仏ではないので、立場と都合に執われて、偏り曇った目で見聞きして、分かったつもりになって、共感したポーズをしてきただけだった。悲壮な闘いに疲れ苦悩する人々の叫びを傾聴し、涙を堪えることは多々あった。しかし、凡夫には真の共感はできないのである。

 

 

 それでも心を共にしようと求めることはとても大切だ。そのためにはまずは「聞く」という事が肝要なのである。

 〝聞く〟ということは、出遇いなのである。

 このことが本当に、人生を豊かにする。

 分かったつもりでいる私を驚かせ、身を恥じ気づきを与えてくれる。そしてそこから新たに道が開かれる喜びがあり、我々真宗門徒は代々仏事で聞法することをとても大切にしてきた。

 

 

 「〝つ〟が付くうちは仏(神)の子」ということわざがある。

 娘はまだ八つなので仏の子なのだ。大事なことを教えてくれる。

 我が子のことは何でも分かったつもりになっていたことも恥ずかしい。自分の娘だからなのではあるが、これほど深く胸が痛くなったことはしばらくなかった。

 人生は苦難の連続である。多くの人が苦悩している。

 隣でオロオロしているだけかもしれないが、僧籍を持っている者としては、せめて形だけでも我が事として傾聴し心を共にしたいとは思う。せめて負うた子には隣でオロオロしてやろう。